
3/5の文藝春秋の配信でも述べたが、トランプのイラン攻撃はいよいよ『西洋の敗北』を決定づけたようだ。西側の最大の売りだった「ルールに基づく国際秩序」を自ら放り出したのだからあたり前だが、実態はよりひどかった。
米国での報道によると、プーチンは「イランの濃縮ウランをロシアが引き取る」形での戦争回避をトランプに提案し、断られていたそうだ。イランの側も蹴ったようだが、これだと誰が “平和勢力” なのかも逆転してしまう。
プーチン氏は電話会談で、高濃縮ウランのロシア移送を含む複数の紛争解決策を提示した。ロシアは米国の対イラン攻撃開始前から繰り返し同様の提案をしていたが、米国とイランのいずれも受け入れなかったという。
2026.3.14
強調は引用者
そして、イランを爆撃し中東産の原油を暴騰させれば、代わる供給元としてロシアは息を吹き返す。延々言われた「ロシアもそろそろ継戦は苦しい」論もいよいよお陀仏で、ウクライナが池乃めだかになっても不思議ではない。

中東の混乱が長引けば、軍事的支出によって圧迫されるロシアの予算の収支改善につながる。事実上封鎖されているホルムズ海峡を通過しないエネルギーの供給元として存在感が高まれば、ロシアはウクライナ侵略をやめないまま、制裁の全面解除を米欧などに迫る可能性もある。
2026.3.14
公平に言って(ぼく自身も含めて)、2022年2月にウクライナ戦争が始まった際、こんな展開を予想した人はいなかった。むしろあらゆる “専門家” が、いまこそ「西側の正義と力」を示す時だと、意気盛んだったのが懐かしい。
…と、ぼくが言っても、一部の業界人には、

「ウクライナなんてもう『今はホットイシューではないので』、そんな反省はクソどうでもいいんですね~。それよりイラン! ホルムズ! うおおおお新しいセンモンカをバズらせてこっからも外為特会みたいにホクホク!!」
と、あしらわれるらしいが、この現状について篠田英朗さんが、示唆の深いことを書いていた。

眉を顰めざるを得ないのは、学者や評論家という肩書を持つ人々が、国内の人間関係の対立図式にそって現実を勝手に脚色して一方的に「マウントを取る」場面や、アメリカなど紛争当事者の一方に肩入れし過ぎて根拠不明で現実と整合しない情報を流布して特定のファン層だけを喜ばせているような場面が目立つことである。
(中 略)
SNS時代になって旧時代の評論活動は不可能となり、学者や評論家といえば、刹那的な発言で人気者となっている人たち、のことになってしまったようである。SNSの登場によって、専門家の言論は「知識の提供」から「感情の動員」へと変質した。SNS空間では、分析の正確さよりも、支持者を興奮させる言説の方が拡散されやすいためだ。
2026.3.11
SNSで発信する学者の増加が、かえって学問の内実をポピュリズム化したとの指摘だ。が、現実性はまるでないが、刹那的にはキモチよくて興奮できる快楽の供給者には、ふさわしい名前がある。
はいっ、“売人” ですねぇ(笑)。そんな人たちが2020年からいかに世の中をおかしくしたかは、これまで再三書いてきた。

とはいえドラッグだって、売れるのは「買う人」がいるからだ。そちらの側――供給ではなく需要の側にいるのは、どんな人だろう? むしろ、そちらにこそ、SNSが学問と社会の結びつきを歪めてしまった原因はないか。
この問いに気づかされたのは、目下の資本主義は消費者を依存症にして物を売る、病的な段階に入っているとする、刺激的な見取り図を示す著作で紹介されていた、ある心理学の実験だった。
第一のラットはボタンを押すたびに、静脈へのコカイン注入を受ける。第二のラットは自分ではボタンを押すことなく、第一のラットがボタンを押した時だけ、同じタイミングで同量のコカイン注入を受ける。したがって二匹のラットのコカイン血中濃度の時間変化は同一に保たれる。
ところがコカインに対するアディクション行動は、第一のラットの方に、より顕著に観察されたという。その違いは、血中濃度の変化によってではなく、自発的行為の有無から生じているはずだ。……自発的な行為選択による能動的学習(positive learning)が大きな役割を果たしているということだ。
鈴木直氏、45-46頁
段落を改変
ヒトに限らず動物的な本能のレベルで、ぼくらには「自分の選択や行動」が快感をもたらした(と認知される)とき、その快楽をいっそう最大化して感受し、ヤメられなくなる特性がある。そこにこそ、依存に陥る罠がある。
依存症と聞いてつい、自立できない「頼りない人」がなると思い込むのは偏見で、かつ最大のミスリードだ。むしろ「私は」こんなにやってる! という自意識を毎日PRするタイプの方が、実はよほどなにかに依存しやすい。
メンタルヘルスの “専門家”(経験者としてだけどね☆)でもある、ぼくが前からこだわってきた言い方に直すと、能動性は主体性とは違うのだ。ところがSNSほど、両者をごちゃまぜにして錯覚させやすいメディアもない。
自らボタンを押しまくって中毒になった第一のラットの行動を、「主体的」と呼ぶ人は誰もいない。が、ヒトが使うSNSでは、自分はセンモンカの発言をリポストしまくってるから「意識高い!」と思い込む人が山ほどいる。
思い込むだけではない。同様の行動をしない――真に「主体性」を持って多様な言論を吟味している(かもしれない)第二のラットに対して、「コイツらはなぜ中毒にならないんだ、意識が低い!」と驕り始める例もある。
…いやいやアイドルの推し活じゃあるまいし、「学者をそんな風に消費する人とかいないでしょ?」と思うかもしれない。でも、いるらしいよ(笑)。あまりにうってつけなアイコンまで目に入ったので、一例をご紹介。

そして一方で見せるコメディエンヌさながらのお茶目なところ、グルメやスイーツやコスメ、ファッションの話題、あるいは鶴岡先生に対する厳しい(?)ツッコミなどなど楽しませてもらえて、「先生どんだけキャパでかいんだwww守備範囲広すぎwww」とも思います(笑)
(中 略)
自分を支えてくれる「推し」がいるってだいじなことなんだとつくづく思います。
2024.8.12
著者が何者かはこちらも
へぇ(苦笑)。この状態のヒトが「センモンカの仰るとおりに国際政治を扱え!」みたく、毎日叫ぶ場所がSNSなのだ。ヤバいですよね。
もう1年半近く前の記事にも書いたように、SNSの擬似的な近接性を “啓蒙” に役立てる試みは、正反対の結果をもたらした。起きたのは、センモンカの方が「守備範囲広すぎwww」な “俗人” になるだけの逆啓蒙だったのだ。

かねて予告している次回作『専門家から遠く離れて』も、聞き書きの直しが進み、残りは結論部のみとなった。年内の刊行はまず確実で安堵しているが、あらかじめお伝えしたいことがある。
某業界人によると、コロナもウクライナも「ホットイシューではない」らしいが、そうは行かない。それらが明るみに出したのは、ヒトが自らの主体性をラットレベルまで退化させている、まさに最も深刻な今日の問題だ。
なぜ、ぼくらは近代的な “啓蒙” と科学技術の進歩の果てに、そんな場所まで来てしまったのか。
個々のセンモンカや、幾度もの丁重な呼びかけにもかかわらずそちらに寝返った者の実名はしっかり明記しつつ、同書が目指すのは、この普遍的な問いにこそ答えて、処方箋を描くことだ。

ゆえあって去年からぼくは「戦後批評の正嫡」になって、文藝評論が政治思想になる日本の最良の伝統を引き継いだりもしてるわけだが(汗笑)、その意味で次回作は、ぼくにとっての「文明評論」にするつもりである。

ぜひ、ご期待を賜りたい。西側ないし近代文明のいよいよの没落を見るいま、日本でものを書く人にできることは、その他にないのだから。
参考記事:


(ヘッダーは、夏目製作所の商品見本より)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年3月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。








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