【戦国時代の天皇③】後陽成天皇は北京遷御も準備した

『誤解だらけの皇位継承の真実』(清談社)と『地図と閨閥で読み解く戦国地政学 織田・豊臣・徳川の盛衰』(さくら舎)を踏まえ、室町時代から江戸初期までの歴代天皇の視点から見た戦国史について、本日は後陽成天皇を取り上げる。

正親町天皇は嫡男の誠仁親王への譲位を希望していたが、本能寺の変の4年後の1586年に薨去されたので、孫の後陽成天皇が即位した(在位:1586年12月17日〈天正14年11月7日〉~1611年5月9日〈慶長16年3月27日〉)。

後陽成天皇 (泉涌寺蔵、狩野孝信筆)Wikipediaより

秀吉の聚楽第行幸と朝廷の権威回復

天正16年(1588年)1月、将軍・足利義昭が秀吉とともに参内して、征夷大将軍職を朝廷に返上し、朝廷は義昭に准三宮の待遇を与えた。同年4月、秀吉の演出によって天皇の聚楽第行幸が盛大に行われた。このことで、天皇を頂点とした統治体制が確立し、明治体制の先駆となった。

足利義昭像(東京大学史料編纂所蔵) Wikipediaより

武士である秀吉が関白となり、武家と公家が対等という関係になった。王政復古では幕府と摂関制を両方とも廃止して新政府をつくったが、公家と大名を対等に位置づけるという発想は引き継がれている。

聚楽第行幸で、各大名は関白秀吉への忠誠を誓うとともに、禁裏、公家、門跡の所領を侵さないことも誓約した。秀吉も禁裏、上皇、皇弟八条宮の御料の進上、公家・門跡領の設定を行い、皇族・公家の生活が安定し、文化活動や伝統的な儀式の復興を図れる経済的な基盤を確立した。

南北朝以来、とくに足利義満の時代から曖昧になっていた、皇室が日本という国の正統性の象徴であるという考え方がここに再確認されただけでなく、経済的な安定も確保されたのだから、朝廷にとっても大満足だった。

その後も、宮中に参上してさまざまな行事を行うことが嫌いでない秀吉は、しばしば後陽成天皇のもとを訪れている。また、天皇も秀吉の政治行動を自分の意向に沿ったものとして位置づけ、「北条氏直は天道の正理に背いて帝都に対して奸策を企てている。どうして天罰を蒙らずにすむものだろうか。勅命に従わぬものには誅伐を加えないでおかれようか」といった書を与えられて北条氏の上洛を促され、秀吉の小田原出陣に際しては、軍勢を閲兵し、秀吉に杯までお与えになった。

後陽成天皇は北京遷御まで準備していた

後陽成天皇が大陸出兵に反対だったという人もいるが、根拠はない。秀吉が渡海しようとしたときに、自分で渡海するのは危険だから、部下にやらせばいいと言っただけだし、秀吉が北京を攻略したら中国の皇帝になっていただいて北京に遷座していただくと言ったときは、同行する公家の人選まで始めている。後陽成天皇も大航海時代の精神を共有されていたということだ。

豊臣秀吉像(狩野光信画・南化玄興賛、高台寺蔵)

京都の町を再生した豊臣秀吉

また、秀吉が京都の町の中興の祖と言うべきであることも、大いに朝廷を満足させた。今でも、京都人の感覚で京都の町の範囲を捉えるとすれば、だいたい「御土居」に囲まれたところと、鴨川の東側の一部に限られる。

その御土居という土塁と空堀による城壁を造ったのが豊臣秀吉である。北野天満宮の境内などに残っているし、丹波口とか鞍馬口といったものは城門のあった場所の名残である。

そして、150メートル四方を1区画にしていたものを、縦にもう1本道路を建設して短冊状の区画にした。

また、町のあちこちにあった寺を寺町と寺之内に集中させ、公家屋敷は御所の周辺に集め、かつての大内裏の跡には聚楽第が築かれた。また、かつて平清盛の六波羅の屋敷があったあたりに大仏殿や豊国神社が造られた。

家康の朝廷介入と後陽成天皇の譲位問題

だが、秀吉の死後、徳川家康は足利将軍の後継者として朝廷に高圧的な態度を取る。もちろん、将軍宣下をしたのは後陽成天皇だが、それが徳川に天下を与えるということを意味しているのではなく、いずれ豊臣秀頼がより高い地位である関白に就くことは既定路線だった。それは、秀忠が2代将軍になっても変わるものではなかった。

しかしながら、家康は真綿で締めるようなやり方で、朝廷をないがしろにした。

徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)

秀吉が死んだあたりから譲位問題が生じた。女御の近衛前子は12人もの子をなしたが、当初はいったん、前子以外の母を持つ長男である良仁親王に譲位されるはずだった。ところが、天皇は前子の子である後の後水尾天皇につなぐために、いったん弟の八条宮に譲位したいと言い出し、もめたが、結局、譲位は先延ばしとなり、後に後水尾天皇に譲位された。

慶長14年(1609年)には、大々的な宮中のセックススキャンダル(女官たちと公家たちの集団乱交事件)である猪熊事件が勃発し、後陽成天皇は関係者の死罪を主張したが、天皇の母である新上東門院(勧修寺晴子)が所司代に寛大な措置を願い出て、これが幕府の朝廷への介入のきっかけになってしまった。

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