過去の歴史を理解するに当たって、それぞれの時代が現在とは全く違った地理であったことを知らないと理解できるはずがない。自然の地形もそうだが、各地方の人口や生産力も大事だ。そこで、太閤検地の頃(慶長3年)、江戸中期(元禄年間)、明治5年の国別の石高と順位から読み取れることを、『地図と閨閥で読み解く戦国地政学 織田・豊臣・徳川の盛衰』(さくら舎)の内容も含めて分析してみる。
国別石高の上位10か国はどう変わったか
まず、上位10か国について見ると、慶長では陸奥、近江、武蔵、尾張、伊勢、美濃、常陸、越前、上野、大和である。
それが、元禄では陸奥、武蔵、出羽、常陸、近江、越後、越前、下野、美濃、伊勢となり、明治には陸奥、出羽、越後、常陸、越中、近江、肥後、信濃、尾張となる。

日本海側の躍進を支えた新田開発
こうして見て分かるのは、日本海側の躍進である。出羽は慶長32万石(24位)、元禄113万石、明治152万石だ。越後も慶長39万石(14位)、元禄82万石、明治115万石だ。越中も慶長38万石、元禄61万石、明治89万石である。いずれも大河川下流の低湿地の開発が進んだことが効いている。
越後では新発田藩の溝口氏、出羽では庄内藩の酒井氏、越中では前田氏のような東海地方出身の大名の治水術が導入された。越後は上杉謙信の頃は、それほど大国ではなかったのである。
近畿・東海地方の伸び悩み
伸び悩んだところでは、近江が慶長78万石、元禄84万石、明治86万石で、すでに戦国時代に目一杯の開発が終わっていたことを示している。近江商人の活躍も、だいたいの地方では農民不足で他国へ出ることを嫌ったのに対して、彦根藩などにとってはむしろ人口過剰が問題だった結果だ。
近江に限らず、近畿地方はだいたい低調で、同じことがいえる。
東海地方も低迷しているが、尾張では干拓による新田開発でかなり石高が上がっている。防長、土佐、肥前、肥後など、九州や中四国西部が健闘しているのは、明治維新の原動力を感じさせる。
関東・甲斐・駿河の低迷と幕府の統治
甲斐は慶長の33位から明治には42位に、駿河が46位から50位になるなど、関東地方が低迷しているのは、幕府直轄領の統治がうまくいっていなかったことをうかがわせる。

bee32/iStock
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