古代史サイエンス:「天の岩戸」の日食はあったのか? --- 金澤 正由樹

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「天の岩戸」は日食だったのか

日本人なら、古事記や日本書紀にある「天の岩戸」のエピソードを知らない人はいないでしょう。

太陽神である天照大神は、弟神須佐之男命のたび重なる悪行に怒り心頭、ついには高天原にある洞窟「天の岩戸」に隠れてしまう。すると、高天原と中つ国は真っ暗になり大混乱。困り果てた八百万の神々は、みんなで集まって対策を協議した…というおなじみの話です。

この天の岩戸は日食ではないかという説は、江戸時代に荻生徂徠が言い出したとのこと。しかし、最初に科学的な根拠を示したのは、1989年に出版された斉藤国治氏の著書『古天文学―パソコンによる計算と演習』とされています。

古天文学による検証

東京天文台(現・国立天文台)の職員だった斉藤氏は、天の岩戸が皆既日食だとすると、この時期に奈良盆地で観測できるのは、西暦158年7月13日の皆既日食のみであると書いています(同書p133)。しかし、話はここで終わりませんでした・・・。

図1 158年7月13日の皆既日食(各種資料を参考に作成)

その後の1993年には、井沢元彦氏が『逆説の日本史1』で、斉藤氏が示した248年9月5日の皆既日食こそが「天の岩戸」だと主張します(同書p215)。158年に起きたのは、日本中が混乱した「倭国大乱」だというのです。

魏志倭人伝によれば、魏の死者が訪れた249年には、卑弥呼は既に死亡していました。井沢氏によると、この248年の皆既日食は、太陽を象徴する卑弥呼=天照大神の霊力が衰えた証拠とされ、彼女の死亡(殺害)の直接的な原因だとします。

図2 248年9月5日の皆既日食(大阪市立科学館の資料を参考に作成)

しかし、248年の皆既日食が目撃されるのは能登半島付近に限られます。邪馬台国の有力な比定地である北部九州や奈良盆地では、部分日食しか見られません。つまり、「高天原と中つ国は真っ暗」という状況にはならないのです。

井沢氏の『逆説の日本史』は、シリーズ570万部を超えるベストセラーになったこともあり、反響も大きかったようです。このため、「天の岩戸」の日食については、論争が論争を呼び、いまだに確たる結論は出ていません。

地球の自転の遅れによる影響

2010年になると、ついには国立天文台までがこの問題に乗り出しました。西暦3世紀の北部九州や奈良盆地では皆既日食が観測できないため、「天の岩戸」の日食はなかった、という報告を出しています(※1)。しかし、この話には後日談があります。

国立天文台は、翌2011年になると見解を変え、2012年に事実上の訂正報告を出すことになります(※2)。地球の自転速度の変化を考慮すると、北部九州や奈良盆地で皆既に近い日食が観測できた可能性がある、というのです。地球の自転速度が変化すれば、日食でできる月の影の位置も変化し、当然ながら皆既日食が見られる場所も変わってきます。

図3 247年3月24日の皆既日食(国立天文台の資料を参考に作成)

地球の自転速度は、月との間に働く潮汐力など、様々な理由で少しずつ遅れています。ときどき年末に「うるう秒」が挿入されるのは、その調整を行っているためです。このずれは不規則に発生するため、なぜか最近ではトレンドが逆転し、自転速度が加速しているという報告もあります。

そこで、国立天文台では、過去の数多くの観測例から慎重に推定を行いました。結論として、248年の日食はともかく、斉藤氏や井沢氏の主張とは異なる247年3月24日の皆既日食なら、北部九州や奈良盆地で目撃された可能性も否定できない、というのが現時点の見解になります。

なお、この247年の皆既日食は、奇妙なことに斉藤氏の1989年の著書には掲載されていません。地球の自転の遅れを計算すると、日本では観測されないと判断したのでしょうか・・・。

このように、科学的な検証結果は絶対ではなく、意外にも二転三転しているのです。

天文ソフトによるシミュレーション結果

天文ファンにはよく知られていますが、日食のシミュレーションができる無料ソフトはいくつもあります。多少の心得がある人なら、手持ちのパソコンで動作させることは難しくありません。結果がこれだけ二転三転していると、本当かどうか確認したくなるのは当然でしょう。私はEmapWinというソフトを使ってみました。次からの図では、赤丸が太陽、青丸が月です。

結果だけ書いておくと、邪馬台国があったとされる北部九州では、卑弥呼の在位期間とされる西暦247年3月24日の日没時に、皆既か皆既に近い日食が見られる可能性があるようです(地球の自転の遅れが8900秒では食分0.98)。天気さえ良ければ、日没時に太陽はほぼ真っ暗になります。この日食は、当時の魏の首都・洛陽でも観測されたという記録もあります。

図4 天文ソフトによるシミュレーション結果(博多)

残念ながら、奈良盆地では皆既になる確率は低いようです(地球の自転の遅れが8900秒では食分0.85)。

図5 天文ソフトによるシミュレーション結果(飛鳥)

一方、倭国大乱に関係するかもしれない158年7月13日の日食は、北部九州でも奈良盆地でも、日没時にはほぼ皆既といっていいでしょう(地球の自転の遅れが9000秒ではそれぞれ食分0.96と0.99)。

倭国大乱は、後漢の桓帝・霊帝の治世の間(146~189年)に起きたと記録にあるので、時期的にもぴったりです。なお、この日食は新羅の首都・慶州でも観測されたようで、日本でも目撃された確率は高いはずです。

図6 天文ソフトによるシミュレーション結果(博多)

図7 天文ソフトによるシミュレーション結果(飛鳥)

このように、158年も247年も、日没が近づくにつれて太陽がどんどん欠けていき、ほぼ真っ暗になって地表から姿を消す・・・という不気味な現象が観察されることになります。当時の素朴な弥生人なら、相当な恐怖を覚えても不思議ではないでしょう。

再現性から考える「倭国大乱」と「天の岩戸」の日食

以上のことをまとめると、

  • 158年の日食 倭国大乱→男王に代わって女王・卑弥呼が即位
  • 247年の日食 卑弥呼の死→混乱→台与が即位

となり、「日没時の皆既日食→混乱→新たな女王が即位」という状況が見事に再現されていることがわかります。

なお、金環食であれば168年に北部九州、部分食であれば248年に北部九州や奈良盆地で見られたはずですから、確率的にも「倭国大乱」や「天の岩戸」の日食はあったと考えた方がよさそうです。

※1 谷川清隆, 相馬充 「『天の磐戸』日食候補について」 国立天文台報 第13巻, 85-99 (2010).
※2 相馬充, 上田暁俊, 谷川清隆, 安本美典 「247 年3月24日の日食について」 国立天文台報 第14巻, 15-34 (2012).

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金澤 正由樹(かなざわ まさゆき)
1960年代関東地方生まれ。ABOセンター研究員。社会人になってから、井沢元彦氏の著作に出会い、日本史に興味を持つ。以後、国内と海外の情報を収集し、ゲノム解析や天文学などの知識を生かして、独自の視点で古代史を研究。コンピューターサイエンス専攻。数学教員免許、英検1級、TOEIC900点のホルダー。