アメリカ政府は、ICC(国際刑事裁判所)の赤根智子裁判所長に対して制裁を科した。第二次トランプ政権が発足してすぐ2025年2月6日に、ICCに対して制裁を発動する大統領令を発して以降、今回が5回目の制裁指定である。赤根所長を含む2名が追加されたことで、制裁対象となったICC関係者は累計13人となった。

赤根智子ICC裁判所長 国際刑事裁判所HPより
アメリカの制裁は、単なる入国禁止措置のようなものではなく、金融制裁である。まずもって米国内の資産の凍結と資産移動の禁止が定められる。そして、米国外の金融機関も、米ドル決済や米国金融機関との取引関係への影響を懸念して、事実上これに追随する措置をとることがある。基軸通貨ドルと世界最大級の金融市場を擁するアメリカが金融システムからの排除を武器にすると、外国金融機関にも強い萎縮効果が生じるからだ。
法的根拠は薄弱
すでに『アゴラ』で対ロシア制裁について書いているときなどにふれてきているが、このアメリカの一方的な制裁には、国際法上の根拠はない。それどころか、国内法上の根拠についても、少なくとも重大な疑問がある。
金融制裁の実施担当部署である米国財務省外国資産管理局(OFAC)は(https://ofac.treasury.gov/recent-actions/20260818)、他の金融制裁同様にICCに対する一連の制裁措置を、国家緊急経済権限法(IEEPA)を根拠とする25年2月6日大統領令に依拠して実施していることを明示している(https://ofac.treasury.gov/media/933981/download?inline)。IEEPAは、国家緊急事態に際して大統領に特別な経済権限を与える法律である。トランプ大統領は2025年、ほぼ全世界を対象とする高率関税にもIEEPAを援用した。しかし2026年2月、連邦最高裁は、IEEPAは大統領に関税を課す権限を付与していないとして、この措置を違法と判断した。大統領がIEEPAから極めて広範な権限を引き出そうとすることに、最高裁が歯止めをかけた形である。
ICC制裁についても、IEEPAが想定する「米国の国家安全保障、外交政策または経済に対する、国外に起源を持つ異例かつ重大な脅威」という要件を満たすのかは、別途厳しく問われるべきだろう。アフガニスタンでの戦争犯罪に関する捜査ではアメリカ人が捜査対象になりうるが、2021年のタリバンによる政権奪取後は、ICCの捜査は実態としては停止している。ICCが、アメリカという国家に対する脅威になっている要素はない。ICCを弱体化させ、締約国に脱退を促す姿勢を公然と示しているルビオ国務長官が述べているように、アメリカは、ICCがイスラエルのネタニヤフ首相を訴追したことに対する報復措置をとっているのである。文字通りの一方的な対抗措置で、ICCという組織に対するあからさまな敵対的行為である。
日本政府の対応
日本政府は、2025年2月7日に出たICC締約国79カ国共同声明に、参加しなかった。これは、アメリカに対する名指しの非難はしていないが、アメリカがICCに対する制裁を導入した大統領令が出た翌日の声明であった。制裁にかかわらず、締約国が引き続きICCを支え続けていくことを宣言した内容であった。日本が参加しなかった理由は、もちろん説明はされていないが、アメリカへの配慮があったと見るのが自然だろう。そうした抑制的な姿勢にもかかわらず、今回ついに日本人である赤根所長自身が制裁対象となった。結果的には、他国と協調してアメリカの対応に毅然とした対応を取ることもしないまま、自国出身の裁判長に制裁を科されるところに追い詰められた。
赤根所長に対する制裁発表の翌日、8月19日、外務省は、「報道官談話」を発表した。政府として文書で立場を示したことには意味があるが、外務大臣談話や官房長官談話ではなく、外務報道官談話という相対的に抑制された形式にとどめた。
その内容も、「今回の措置は大変残念です」と論評するにとどめた穏健なものであった。
この報道官談話の英語版でも “very unfortunate” という抑制的な表現になっている。
なお超党派の国会議員が作っている「人権外交を超党派で考える議員連盟」は、会見を開いて「法の支配に対する重大な侵害として、最も強い言葉で非難する」とする緊急声明を発表し、政府とは一線を画すような態度を示した。これはこれで大きな意味はあるだろう。ただ、自民党議員も参加しているとはいえ、ウェブサイト上のリストを見る限り現役閣僚が参加していない議連による声明である以上、政府としての意思表示を代替するものではない。

アメリカへの配慮に効果はなかった?高市首相 首相官邸HPより
日本がとるべき姿勢
日本は国際社会の「法の支配」を重視して推進している、と繰り返し明言している。その観点からICCに加入し、有力国としてその活動を支えていることになっている。今回のアメリカの措置は、まさに「残念」であるわけだが、ただ溜息をついているだけ、ということでは、対外的な威信に関わる。
また、政府の対応があまりにも冷たい、ということになると、今後の日本の有為な人材のキャリア発展にも、長期的な悪影響を及ぼしかねない。赤根智子氏は、法務・検察畑を歩んできた国際派の代表的な人材といってよい存在だった。東大法学部出身の検事で、留学経験と、国際機関での勤務経験などを持ち合わせている希有な人材であった。そうした経歴を背景に、日本政府の推薦を受けてICC判事選挙に立候補し、当選後は判事間の互選によって所長に選出された。赤根氏は、著書において、最初はICCの判事など苦労が多そうで引き受けられないと固辞したが、法務省・外務省の上層部から強い要請があり、判事選挙に立候補することにした、という経緯を綴っている。
その赤根判事を、日本政府は、苦境においては見捨てたかのような印象を作り出してしまうと、国内世論面でも、対外イメージでも、悪影響が大きいだろう。今後、若手の人材が、政府を通じて国際的なキャリアを構築していく場合にも、目に見えない負の影響が生まれていくだろう。
日米同盟の維持は重要な外交の柱であることは確かであるとして、それにしても工夫して、何らかの目に見える行動をとらないと、結局はアメリカにも軽視され、日本外交の迷走につながっていくことになるはずだ。
恐らくは具体的に取りうる措置としては、以下の三つの領域がある。
国内金融機関への明確な方針提示
今回の制裁発動を受けて、最も必要なのは、制裁に対応する措置である。といってもアメリカ政府の態度を変えさせるのが至難の業であることは確かである。
そのためICCでは、職員給与を半年分まとめて前払いする措置をとったりして、突然の金融制裁発動に備えてきている。それを助けているのは、ICCのホスト国といってもよいオランダの政府である。オランダ国内の金融機関等に、アメリカの制裁に追随しないように働きかけている。日本も、オランダ政府と同様の対応をとるべきだろう。
すでに述べたように、二次的な制裁の恐れから、アメリカ以外の諸国の金融機関も、アメリカの単独制裁に歩調を合わせた措置を取るのが、通例である。もし日本の金融機関がアメリカの制裁に追随すると、赤根判事が日本国内で保持している資産が凍結されたり、取引が不可能になったりする。
それは、赤根判事が甘受すべきではない不当な不利益である。防ぐ手立てを考えなければならない。金融機関の独自判断だけに任せるのは、無責任だろう。日本政府が外交的努力で支援をする姿勢を見せるためにも、アメリカの大統領令に従う必要はないことを明示的に政府方針として示すべきだ。
万が一、日本政府が赤根裁判長の不利益の発生を見て見ぬふりをしているかのように振る舞う事態になると、ICCの活動そのものに加えて、日本人の有為な人材の今後のキャリア形成にも大きな影を落とし、さらには国内世論のみならず日本の対外的威信にも傷がつくことは、すでに述べたとおりだ。
日本政府はまず、米国の大統領令が日本国内で直接の法的効力を持つものではないことを明確にし、日本の金融機関が過剰なリスク回避によって赤根所長との国内取引まで一律に停止することがないよう、必要な指針や情報提供を行うべきではないか。
ICCローマ規程86条は締約国にICCへの全面的な協力を求めている。少なくとも、その趣旨に照らせば、第三国の措置によってICCの活動が国内で不必要に阻害されることを日本政府が漫然と容認するのは、締約国として望ましい態度とは言い難い。
より高い政治レベルでの意思表明
「残念」だという「談話」を出したのは、外務省報道官にとどまっているが、やはり外務大臣なり官房長官なりが、しっかりと声明を出すべきだろう。必ずしもアメリカを名指しで非難する内容ではないとしても、ICCの活動を阻害する措置は認められない、まして(アメリカ政府が目指すと明言している)ICCの解体などは認められない、といった決意表明をすることは、最低限必要なことであると思われる。
現在の「報道官談話」では、「法の支配」の理念を参照しただけで、あとは「ICCを支持する」といった及び腰の言い方でとどまっている。「支持」というのは、いかにも他人行儀である。せめてもう少し積極的かつ能動的な表現で、その活動を「支援」して「支えて」いく、といった意思の表明があってしかるべきだろう。
ICC締約国間の連携強化
すでに述べたように、日本は、これまで他の締約国が行ってきたアメリカの制裁に対抗する意思の表明の機会に参加してこなかった。今後は、参加していくべきだろう。できれば締約国の努力を束ねて、強化していく役割を担いたいところである。
2022年にロシアがウクライナ全面侵攻を起こした際、当時の岸田文雄首相は、法の支配を強化する努力の観点から、ICCへの支援の強化を、具体的な取り組むべき課題として特筆していた。その後、日本政府がICCを支援していない、ということではないが、当時の岸田首相の強い言い方からすれば、物足りない印象は受けざるを得ない。
ICCで多数派を占める欧州諸国は、ウクライナにおける戦争犯罪捜査に、追加的な支援を提供している。役割分担で言えば、日本は、さらにICCがすそ野を広げて活動を円滑に進められるように支援したい。
本来であれば、ICC内部で邦人職員が勤務する部署の活動が充実するような具体性のある支援を行いたいところである。ICCには正規職員だけで約千人の職員がいるが、邦人職員は十数名とされる。英語を駆使して国際裁判所に勤務できる法律家が極端に少ないため、限られた数の邦人職員の比較的多くは書記局などにもおり、ICCの活動をさまざまな側面から支えている。たとえば、ICCの特殊な政治的性格を鑑みて、裁判所においては珍しい政務分析機能を持つ部署の国別分析ユニット長や、対外関係局の局長は日本人だ。検察局の捜査活動などが華やかで注目されがちだが、日本こそが日本人職員が勤務している部署への支援にも目配りをしたい。
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