プーチン大統領の北方領土訪問をめぐり目立ったのが、国際政治学者の方々の「対露配慮」批判である。そもそも、失敗したとされる『対露配慮』とは具体的に何だったのか。

太平洋艦隊の軍事演習を視察したプーチン大統領 クレムリンHPより 2026年8月12日
すでに私が前回の記事で書いたように、プーチン大統領の北方領土訪問は、2024年頃からロシア政府が実施を明言していた行動であり、その意味では、大きな驚きではない。今年8月の実施となった具体的な背景としては、下院選挙前に国威発揚を図りたかったのではないか、といった指摘もあるが、プーチン大統領の極東での用務にあわせた実務的な調整を経て日程が決まっており、少なくとも大きな政策変更を伴う決定であったとは言えない。

日本は2022年から欧米諸国と歩調を合わせた経済制裁を実施している。冷戦終焉後の「一極化」した世界の状況を前提にして、1990年代以降、アメリカとEUは、単独の一方的な対抗措置としてのいわゆる経済制裁を多用してきている。そのため、欧米諸国には、経済制裁は簡単に発動できるという雰囲気が広がっているのは確かだ。だが、常時30件以上もの経済制裁を運用しているアメリカとEUの姿勢は、国際社会の歴史からすれば、異常である。冷戦終焉後の特殊な時代において、このような異常事態が常態化してしまったにすぎない。
国際法の観点から言えば、経済制裁とは、本来であれば、国連憲章第7章の強制措置の権限を発動する国連安全保障理事会の決議を必要とする敵対的な行為である。対ロシア制裁に国連安保理決議が出ないのは、まずもってロシアが拒否権を持っているからではあるが、いずれにせよ決議は存在していないわけなので、対ロシア制裁を国際法上正当化する根拠は、ウクライナの自衛権行使に対する支援という点に求めることになる。これは好むと好まざるとに関わらず、交戦国の一方であるロシアと敵対的関係に入るということを意味せざるを得ない。
この観点からすれば、ロシアが北方領土問題で譲歩をしてくるような事態は、想定できなかった。
もちろんロシアが喉から手が出るほど制裁解除を望んでいるという状況があれば、事情は異なるだろうが、ロシアは欧米諸国とアジア・オセアニアのアメリカの同盟諸国による「経済制裁」を前提にした経済運営を、すでに4年半にわたって実施してきている。よほどの事情の変化がなければ、譲歩をしてくるような状況は想像できない。いずれにせよ、そのような事情の変化は、今のところ確認されない。

プーチン大統領(クレムリンHP)と高市首相(自民党HP)
それだけに、プーチン大統領の北方領土訪問の後、一部の国際政治学者が一斉に高市政権の宥和政策のようなものを非難したのは、注目すべき事態であった。これについては、すでに前回の記事で取り上げた。

実は、私以外にも、この点を不審に思った方々が少なくない。


軍事研究を専門とする小泉悠准教授は、「より大きな譲歩引き出す狙いか」と題する『日本経済新聞』の記事で、日本がロシアとの関係改善を模索する動きを見せていたタイミングで、ロシアは、日本の側が譲歩しようとしていると見て圧力を強め、より大きな譲歩を引き出そうとしている、という見方を示した。
ただし、同じ記事で紹介されている他の二人の識者であるロシア外交を専門とする兵頭慎治氏とロシア経済を専門とする雲和広教授は、淡々と日本の経済制裁によって冷え込んだ日露関係の結果であるという見方を当然視し、直近の譲歩の動きについては、特に言及していない。
『時事通信』が紹介しているロシア政治を専門とする西山美久准教授も、同様の見解を述べながら、淡々と「高市政権は対ロ制裁を続けており、プーチン氏とすれば、日本はウクライナ侵攻でさほど影響を受けないにもかかわらず、厳しい態度を取っているという不満があった」と分析している。

しかし、安全保障を専門とする国際政治学者の見方は、やはり小泉准教授と同じである。『日本経済新聞』の15日になってからの「ロシア外交『失敗を検証せよ』『欧州と連携を』識者に聞く展望」という見出しの記事では、NATO研究を専門とする鶴岡路人教授は、次のように述べている。
北方領土訪問には国内の支持を取り付ける目的もあっただろうが、日本へのメッセージでもある。圧力を強めたということだ。高市早苗首相はウクライナのゼレンスキー大統領と会談せず、ロシアに経済産業省幹部らや経済界の訪問団を送った。人的交流の拡大の動きもある。ロシアに敵対的でないという姿勢を示そうとしても答えがこれだった。懐柔したら関係が維持できるというのが幻想だと改めて分かった。
同じ記事で、やはり安全保障を専門とする渡部恒雄笹川平和財団上席フェローは、「ロシアと国境を接するラトビアは日本に連帯のメッセージを送ってきている。・・・欧州への連帯を示すにはウクライナ支援とロシア制裁が重要だ。」と述べている。人口約190万人の小国であり、旧ソ連への編入は違法だったとの立場をとる、反露傾向の強いバルト三国の一つであるラトビアからの連帯を特筆する形で、対露強硬政策を唱えている。
このように見ると、以下のような対比の構図がはっきりしている。ロシア研究を専門にする研究者たちは、日本の対露制裁という過去4年半の事情の中でプーチン大統領の北方領土訪問をとらえたうえで、冷静な言い回しで解説を行っている。
これに対して軍事・安全保障研究を専門とする国際政治学者たちが、高市政権の宥和的な態度が存在しており、それがプーチン大統領の北方領土訪問の引き金になったという見方を示したうえで、ロシアに対していっそう厳しい政策をとるべきだ、という主張をしている。
今回の記事で紹介した小泉悠氏、鶴岡路人氏、渡部恒雄氏、さらに前回の記事で紹介した東野篤子氏、小谷哲男氏、そしてJSFというペンネームで活躍する匿名軍事評論家は、いずれも、いわゆる「ウクライナ応援団」と総称されることのある論者たちであり、過去4年半にわたって厳しいロシア政策をとるべきだという論陣を張ってきた人物たちである。
「ウクライナ応援団」と言われる人々は(ここでは、あくまで集合的な意味でこの呼称を用いる)、ロシアの全面侵攻直後にはメディアにも出演していた松里公孝・元東京大学教授に対し、「親露派」とのレッテルを貼り、激しい攻撃を行った過去を持つ。松里氏は、ウクライナ政治に精通し、ドンバス地方で豊富なフィールド調査経験を持つ稀有な旧ソ連圏研究者であり、国際的にも優れた業績を多数持つ第一級の研究者である。松里教授は、その後、早い段階でメディアから姿を消した。
この「ウクライナ応援団」と地域専門家との間の温度差は、今回のプーチン大統領の北方領土訪問をめぐっても、顕在化していると言える。
東野篤子教授は、細谷雄一教授や鈴木一人教授らとともに、いわゆる安保三文書改定有識者会議のメンバーとなっている。この有識者会議が、ロシアを名指しで日本の脅威と位置づけ、事実上の仮想敵国扱いをしていることは、私がこれまで『アゴラ』の記事でふれてきたところである。
有識者会議では、長期消耗戦を遂行できる「新しい戦い」に備えることが一つのテーマとされているが、そこで繰り返し参照されているモデルは、ウクライナである。
なお、安保三文書改定にまず関わるのは防衛省で、次いで外務省だが、有識者会議でも、運営にあたる内閣官房の国家安全保障局の人事体制から、座長選定を含めた有識者のメンバー選定まで、防衛省および外務省の意向が反映されている。
高市政権が陥った対ロシア宥和政策の一つだと「ウクライナ応援団」によって糾弾されている5月の経済訪問団は、経済産業省の管轄下にある活動であった。
プーチン大統領の北方領土訪問を受け、日本政府の政策にも影響が及ぶ流れが生まれてきている。その動きを見る際には、国際政治学者や霞が関の内部に、かなりはっきりとした立場の違いが存在していることを踏まえておくことが重要だろう。



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【参照記事】
- プーチン大統領の北方領土訪問を「招いた」日本の対ロ融和は存在したのか 篠田 英朗
- 高市首相と「敵」理論とナチス:シュミット『政治的なものの概念』 篠田 英朗
- 「祈りの長崎」の原爆の歴史と二つの世界遺産:永井隆『長崎の鐘』 篠田 英朗
- 平和都市・広島の設計者・浜井信三の著書『原爆市長』 篠田 英朗
- 広島に対する国際的な関心:そして潜在力のある復興史研究の蓄積 篠田 英朗










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