織田と豊臣の真実⑪ 秀次はなぜ蟻地獄に落ちたか

八幡 和郎

※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)を元に、京極初子の回想記の形を取っています。(過去記事のリンクは文末にあります)

太閤殿下は聚楽第を秀次さまに譲られたあと、伏見宮邸を京都御所の北に移してここを買い取られ、京都に近い邸宅とされました。そのときは、風流な別荘だったのです。けれどもこの年に、本格的な城を築くことを始められました。文禄三年(1594年)のことです。

太閤殿下は盛んに京都で有力大名の邸宅を訪れています。記録には、前田利家さま、蒲生氏郷さま、徳川家康さま、宇喜多秀家さま、佐竹義宣さま、上杉景勝さまなどの屋敷への訪問が記されています。また、御所で能を上演するなど朝廷との交流にも気を遣っています。諸大名に伏見にも屋敷を建てさせています。

しかし、秀吉さまは秀次さまをないがしろにされたわけではありません。旧暦の2月の終わりには関白殿下(秀次さま)も一緒に吉野で有名な花見をしています。明治維新以前に建てられた木造建築として奈良の大仏殿に次ぐ規模である、金峯山寺の巨大な蔵王堂はこのときに建てられたものでございます。森に生えている大木をそのままの形で使った野性味あふれる名建築です。

吉野山の桜(SeanPavonePhoto/iStock)

その帰路には、高野山にまわって、亡き母の大政所のために創建した青厳寺に参詣していますが、このあたり太閤殿下の苦悩が読み取れるようです。

この前年は浅井長政の二一回忌でしたので法要を営みました。この年に、京都に菩提寺として養源院を創建することができました。茶々がお拾君を生んでくれたおかげです!それに秀吉さまのまわりに浅井家に仕えていた者やそれの子が多いことも追い風になったかもしれません。

「武功夜話」という書物がございます。蜂須賀小六さまなどと一緒に早くから秀吉さまに仕え、但馬出石城主となって秀次さまのお目付役だった前野長康さまの一族の者が、江戸時代になって尾張で百姓に戻り、その子孫が先祖からの言い伝えを書きためていたのが、伊勢湾台風のときに土蔵から出てきたというものです。

公式の史書にはない生々しい物語で、とても説得的でこれまでもやもやしていたことが白日のもとで明らかにされるといった趣だったので、大反響を呼び、遠藤周作さんや堺屋太一さんの小説の下敷きになりました。ただ、編集して出版する前の原資料を持ち主の方が公開されていないことから、「偽書」という疑惑を指摘する方もおられて評価が定まらない文献です。

豊臣秀次像(部分)( 瑞雲寺所蔵/Wikipedia)

ただ、そこに書かれている秀次事件の経緯は、秀次さまに近い立場の人たちの子孫の所から出てきたものでありながら、秀次さまに厳しいものであるだけに説得力があり、わたくしの記憶にも近いものです。

もともと身分の低い階層の出である太閤殿下は、高貴な人たちと違って、家族に対して現代の人と似た密度の濃い愛着を持った人でございます。また、一族の人たちにも、権力者になった太閤殿下に、まさか自分たちに悪いようにはしないだろうという甘えがあったように思います。

ところが、それそれの周辺の人たちは違います。自分たちの浮沈はそれぞれが使えている人の運命にかかっているのですし、いったん失脚すれば、身内でもないだけに命も危ないと言うことになります。

しかも、年寄りたち同志には、若いころから家族同様に力を合わせて豊臣家興隆のために頑張ってきた同志としての友情がありますが、第二世代の若い人たちは若者らしいドライさに加えて、親密だったころの思い出がありませんから極端に走ることになります。

この記録によると、前野長康さまは「秀吉の実子で織田家の血をも引く若君に天下が返るのは仕方がないのでありますまいか」と秀次さまに進言したといいます。

そもそも、秀頼さまが生まれたときに、太閤殿下は秀次さまの娘を秀頼さまと娶したいと申し出られたのですから、二つ返事で受ければよかったのですが、そのチャンスを逃していました。。

だが、長康さまの子である景定さまなど若い側近たちが、秀次さまを守ろうとして妥協を阻止し、また、軍事教練まがいのことをしたのは、確かです。

断罪の直接の引き金は、朝鮮遠征費用の捻出に困った毛利輝元さまが秀次さまに借金をしたところ、忠誠を求める書き付けを要求されたので、不安になって太閤殿下に提出したことにあります。

大名たちでも、伊達政宗さま、最上義光さま、浅野幸長さま、細川忠興さまといったところは、秀次さまに取り入っていたようです。太閤殿下の年齢を考えれば、秀次さまに近づいておく方が将来、有利だという思惑だったのです。

こうした秀次さまに近い人たち彼らからすると、あわてて将来はお拾君に譲るなどと約束せずに時間を稼げば、太閤殿下の寿命も尽きるという思惑だったのでしょうが、姉の茶々をはじめ、お拾君に近い立場からすると、だからこそ秀次さまを早々に処分して欲しかったのです。

石田三成さまが前野長康さまに、「豊臣政権安泰のためにはなんとか秀吉と秀次に仲良くあって欲しいのだが、どちらの側にも諂うものがいる。太閤殿下は弱気になって、徳川家康さまと前田利家さまの屋敷に足繁く通うなどしているが、両者はいずれも野心家で、朝鮮遠征でも渡海を免れた。一方、西国の大名たちに恩賞を与えるために全国で検地を行って財源を探しているのだが簡単でない」といったような趣旨を言ったと「武功夜話」には書いていますが、だいたい、その当時の客観的な状況に合致した説明です。

そして、お拾君が幼少なので、秀吉さまは、同世代の家康さまと利家さまの二方を信頼して力を持たせ、しかも、それぞれが突出しないようにするというお考えでした。

とくに、利家さまはもともと織田家のなかでの序列はあまり高くなかったのですが、柴田、丹羽、明智、滝川、佐々、さらには、堀秀政さまといった方々が亡くなられたことから、織田家の家臣のなかで最長老になっておられました。しかも、妻のおまつ様は、寧々様の若い頃からの大親友ですし、お二人の娘の豪姫さまは、秀吉様と寧々様に実の子同様に可愛がられていました。のちの、宇喜多秀家様の正室です。

わたくしたち織田家に連なる者としても、信雄さまも失脚されてしまった以上は、利家さまがもっとも頼るべき存在だったのです。

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