※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)、「日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎」 (光文社知恵の森文庫)などを元に、京極初子の回想記の形を取っています。前編「織田と豊臣の真実」はこちらから全てお読みいただけます。本編の過去記事リンクは文末にあります。
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家康さまのご生母である於大の方(伝通院)は、江戸にお住まいだったのですが、京都に来られて社寺の参拝、後陽成天皇の拝謁などされましたが、8月に伏見城で亡くなりました。
まだ14歳のときに刈谷の水野家から岡崎の松平家の嫁となったものの、兄の水野信元さまが織田方に付いたために離縁。知多半島の久松俊勝さまに再嫁し、そこで4人の子に恵まれました。桶狭間の戦いのあと、夫とともに家康さまのもとに世話になることになりましたが、兄の信元さまが家康さまによって切腹させられ、それに抗議して夫の俊勝さまも隠退されました。
久松家の子どもたちは、それぞれに大名などになりましたから恵まれた人生だったともいえますが、家康さまの都合で失ったものもまた多い生涯でございました。江戸の伝通院に葬られましたが、ここはのちに千姫さまなどの墓地にもなりました。
せっかくですので、ここでは、水野家と久松家の由来や一族の皆様を紹介しておきましょう。
水野家(結城・沼津・鶴牧・山形・新宮)
刈谷は三河国でもっとも尾張との国境に近い町で、桶狭間の古戦場からもすぐのところにあります。ここの領主だった水野氏は、源満仲の弟満政の後裔と称し、平安時代末期に知多郡小河(東浦町)に住んで小河氏としていましたが、春日井郡水野(瀬戸市)に移って水野を名乗りました。
さらに、三河国碧海郡刈谷に進出して、松平氏との縁組みを強化し、水野忠政さまの妹が松平信忠さまの夫人となり、忠政の前夫人が松平清康さまの後妻となり、忠政さまの娘於大が広忠さまの夫人になるという複雑な関係を結んばれたのです。この於大さまが、家康さまの母伝通院です。
ですが、於大さまの兄信元さまは織田方に寝返ったので離婚し、於大さまは久松氏と再婚されました。信元さまは桶狭間で今川義元さまが討たれたあと、織田・松平連合の仲介をしたといわれますが、のちに、信元さまは武田と通じていると佐久間信盛さまから通報され、信長さまの要求で家康さまは信元さまを切腹させざるを得なくなりました。1576年のことです。
このあと刈谷の城は忠政九男の忠重さまに与えられたので、この家系が宗家とみなされています。忠重は本能寺の変ののち家康と行動をともにしましたが、石川数正らとともに秀吉のもとに降りました。関ヶ原では東軍に属そうとしましたが、それに先立ち、浜松城主堀尾吉晴さまとともに領内の池鯉鮒(知立)で会食中に加々見秀盛さまと口論となり忠重さまは刺殺され、吉晴さまも重傷を負われました。
忠重さまには水野勝成さまという嫡男がいましたが、凶暴な性格で蔵から所望のものを持ちだそうとしたところ納戸係がいうことを聞かぬと成敗したことから出奔せざるを得なくなりました。虚無僧をしたり各大名家で小禄をもらったりしていましたが、刃傷沙汰が絶えませんでした。
しかし、秀吉さまの死後に家康さまが三成さまから命を狙われたときに馳せ参じてから家康さまに仕え、忠重さまの死後、家督を嗣ぎました。大坂の陣でも勇猛ぶりを発揮し明石掃部助さまを討ち取るなど功を挙げ、大和郡山六万石、ついで備後福山一〇万石を得られました。福島正則さま除封ののちに浅野氏を広島に入れ、同時に外様大名の多い中国地方の抑えとしてここに勇猛な勝成をもってきたのでしょう。
元和堰武のあとに新しい巨城を築いたのですから、異例中の異例です。島原の乱でも松平信綱さまを助けて軍を統率するのに力があり、晩年は若いころの粗暴さは影を潜め、人情の分かる殿さまとして慕われたようです。五代目の勝岑さまの1698年に無嗣断絶しましたが、一門の勝長が能登西谷で復活し、1704年に結城1万8千石で定着しました。
勝成さまの弟水野忠胤さまも、関ヶ原の功で三河に一万石を与えられたが、(桜井)松平忠頼さまを招いた酒席での刃傷沙汰で切腹改易されました。
忠重さまの四男である水野忠清さまは、秀忠さまの側近で大坂の陣に旗本先備として活躍し、小幡多一万石、刈谷二万石、吉田四万石を経て寛永19(1642)年に松本九万石となりました。ところが、六代目の忠恒さまが1725年に松の廊下で長府藩主毛利師就さまに刃傷に及び除封されました。叔父の忠穀さまが家名を次ぎ旗本となりましたが、その子の水野忠友さまが家治さまの小姓となり三河大浜を経て沼津三万石の大名として復活し老中にもなりました。田沼意次さまの子を養子にしましたが、意次さまの失脚によりこれを解消し、家斉さまの小姓だった忠成さまを新たに養子としました。
忠成さまは11代将軍家斉親政時代の実質的な宰相であり、貨幣改鋳による財政難乗りきり、江戸の治安維持、家斉の子どもたちの縁組みなどに辣腕を発揮し、長期的なビジョンはともかくとしてさしあたっての政権運営を円滑に行うことに成功しました。幕末の忠寛さま、忠誠さまも老中をつとめました。
忠清さまの孫である水野忠位さまも大坂定番となったときに大名となり、子の忠定さまが安房北条一万五千石に、四代忠輝さまが上総鶴牧に移りました。
このほか、忠重さまの兄弟からいくつかの大名家が出ています。忠守さまの子である水野忠元さまも秀忠さまの側近で、1620年に下総山川で大名となり、その子の忠善さまが田中、吉田を経て1645年に岡崎五万石となりました。五代忠之さまは、吉宗将軍のもとで老中となり財政を担ったが米価政策への不評の責任をとらされトガケの尻尾切りで失脚しました。吉宗さまは側近にたいへん冷たく、報いることの少ない主君なのです。
その孫の忠辰さまは人事改革に重臣たちから抵抗を受け、最後は座敷牢に押し込まれ、養子の忠任さまは唐津に転封になりました。10代目の忠邦さまについては、幕閣での栄達を望んであえて実収入の少ない浜松へ転封を希望して念願の老中に就任しました。失脚により子の忠精さまは山形五万石に移されましたが、幕末に老中として活躍しました。明治になって近江朝日山に転封となりそこで廃藩置県を迎えました。
さらに、やはり忠重さまの兄弟である忠分さまさの長男である水野分長さまは、家康側近として長久手や小田原で功があり、慶長11年に新城で一万石を得て、二代目の元綱さまも大坂の陣での活躍で安中二万石に栄進しましたが、寛文四年に妻女を殺傷して除封されました。
忠分さまの次男の水野重仲さまは、紀伊頼宣さまの守り役となり、付家老として新宮三万五千石。幕末の忠央は紀伊慶福(家茂)将軍擁立の最大功労者であり、独立して大大名に栄転させてもらえてもよさそうなものでしたが報われませんでした。井伊直弼さまに野心家ぶりが警戒されたのでしょうか。
久松(多古・松山・桑名・今治)
伊予松山の殿さまとして知られる久松氏は、菅原道真の末と称し尾張で斯波氏に仕えていました。家康さまの母が松平広忠さまから離縁されたあと、久松俊勝さまと再婚し多くの子を成しました。俊勝さまは岡崎に戻った直後の時期におおいに家康さまに尽くしましたが、水野信元さまを見殺しにしたことを不満として隠遁しました。子孫は松平を名乗ましたが、一部は明治になって久松に復姓しました。
この久松氏の城下町である松山については、「日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎 」(光文社知恵の森文庫) で詳しくその歴史を説明しています。
長男の松平康元さまは関宿四万石を与えられ、その後、大垣を経て小諸五万石になりましたが三代目で獅子がなく一万石で那須、長島と移りましたが五代目の忠充が発狂して家老たちを切腹させるなどして元禄12年に改易。三男の康俊さまは信康さまらと交換に今川家に人質に出され、さらに武田氏に拘束され脱走したが凍傷で足の指を失いました。五代目にして松平勝以さまが多古一万二千石を与えられました。
こうしたなかで実質本流となったのは、四男の松平定勝さまの系統です。定勝さまは秀吉さまに養子に出されそうになりましたが、母の伝通院が強硬に反対して取りやめになりました。順調に軍功を上げ、慶長六年に掛川、伏見城代を経て大坂の陣のあと桑名一一万石。子の定之が一六三五年に松山に入りました。俳句を盛んにしたのは五代目で47年も藩主だった定直さまです。
定勝さまの六男松平定綱さまは、下総山川、下妻、掛川、淀、大垣を経て桑名11万石。宝永7年に越後高田。寛保元年に白河。九代目に田安家から定信が養子に入って老中として活躍しました。隠居して定永の代になって房総沿岸警備の出費による財政難に苦しみ、政治力を駆使して実収の多い桑名への移封に成功しました。このあおりで忍や白河に移る藩にとっては迷惑このうえない話で聖人君子らしくない行いでした。幕末には、高須藩から会津藩主松平容保さまの弟の定敬さまを養子に迎え、一時は、京都で「一会桑」と並び称されましたが、戊辰戦争で大きな痛手を被りました。
定勝さまの五男の松平定房さまは今治四万石を与えられました。六男松平定政さまは、刈谷二万石の藩主でしたが、家光将軍死後の混乱期に、旗本などの困窮への対策を訴えて所領を返上しました。
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