哲学者梅原猛氏は季刊誌『すばる』に1970年6月から9月まで「神々の流竄」を連載し、続けて1971年2月から8月にかけて「隠された十字架」を、さらに1972年6月から1973年6月まで「水底の歌」を連載した。同年11月に『水底の歌 柿本人麿論』は新潮社から刊行された。この3書は梅原古代学の初期三部作と言え、梅原の歴史観の根幹が既に表明されている。
柿本人麻呂は後世に歌聖と讃えられていたが、同時代史料には全く登場せず、人麻呂の伝記として一定の史料的価値を持つものは『万葉集』の記述以外にない。
梅原氏は独自のアプローチで、この謎に満ちた人麻呂の生涯に関する仮説を提示した。すなわち、柿本人麻呂を『日本書紀』『続日本紀』(いずれも朝廷が編纂した公式の歴史書=「正史」)に登場する「柿本臣猨」「柿本朝臣佐留」に比定し、さらには三十六歌仙の一人である猿丸太夫の伝説と結びつけたのである。加えて、人麻呂が生涯を遂げた地として『万葉集』「鴨山五首」に記された、石見国の「鴨山」の所在地について斎藤茂吉説を批判し、新説を提唱している。
梅原氏によれば、柿本人麻呂は持統天皇の側近として神話や祝詞などの作成に関与していたが、やがて律令体制を重視する藤原氏によって敵視され、反逆者の汚名を着せられて流罪となり、その名も「人麻呂」から「佐留(猨)」へと、つまり人から猿へと貶められた。そして和銅元年(708)四月二十日、石見国益田の海上、高津の鴨島から海に放り込まれて、水死させられたというのだ。
梅原説は大胆で魅力的な仮説ではあるが、発表当初から様々な批判が寄せられた。中でも決定的だったのは、国文学者の益田勝実氏による批判である。
益田氏は、柿本人麻呂=柿本佐留(猨)という梅原の人物比定を否定している。『続日本紀』和銅元年四月二十日条には「従四位下柿本朝臣佐留卒す」と記されている。仮に梅原氏の言うように、人麻呂が流罪に処され、「佐留(猨)」という名前が人から猿への改名だとしたら、剥奪されたはずの「従四位下」という位階が正史に記されるはずがない。また「卒」は四位、五位の貴族が亡くなった場合の敬語であり、三位以上の公卿は「薨」、六位以下は「死」とのみ記された。柿本佐留が流罪になっていたとしたら、やはり「卒」という表現はあり得ない。
もちろん『続日本紀』が編纂された時期に、故人である柿本人麻呂の名誉回復がなされて、従四位下に復していたと想定することもできなくはない。しかし、そのように仮定した場合、『続日本紀』に「佐留」と記載されるのはおかしい。
梅原氏によれば、「佐留」は猿であり、貶められた名前だからである。人麻呂と佐留が同一人物で、人麻呂の名誉回復がなされていたのであれば、「従四位下柿本朝臣人麻呂卒す」という表現でなければならない。以上の益田氏の批判により、梅原説が成り立たないことは明白である。
けれども、梅原氏のより本質的な問題は、伝承の扱い方にある。契沖や賀茂真淵といった国学者は、『万葉集』が柿本人麻呂の死没を単に「死」と書いていることから、人麻呂を六位以下であると説き、この見解が日本文学・日本史研究で継承されてきた。
しかし梅原氏は、従来の「はっきり信頼できる文献以外の、一切の伝承を否定するという立場」を厳しく批判する。梅原氏は言う。「伝説とは、多く、正史に書かれていない歴史の真実を告げるものである」と。梅原氏は『古今和歌集』真名序に見える人麻呂の伝承などに注目し、人麻呂は高位の貴族であると推定し、柿本佐留(猨)と同一人物だと主張した。
これに対し、日本古代文学研究者の古橋信孝氏は著書『柿本人麿』(ミネルヴァ書房、2015年)で次のように批判している。
『水底の歌』を読みながら私はかつて読んだときに、本書は多くの伝承に依拠することで成り立つが、その伝承に対する感じ方、考え方が誤っていると考えたことを思い出した…(中略)…最初から資料がない場合は、近代の知は通用しない。人麿については実証的な方法は拒絶されているのだ。伝承は、そういう実証を超える、どの社会にもある人々の想いの表現である。 梅原の他との最大の違いは伝承を抱え込むことで史実を掘り起こそうとしたことである。しかし伝承には事実が反映されているという見方は近代が生み出したものである。伝承は生み出した時代、社会の真実を表現したものだが、必ずしも事実をあらわしたものではない。
日本古典文学研究者の多田一臣氏も以下のように述べている(「梅原猛氏の怨霊史観」『ユリイカ』2019年4月臨時増刊号、青土社)。
人麻呂の生涯が伝説化される際、人麻呂という存在そのもののなかに、その死を横死と見るような想像力を誘発する何かがあったに違いない。とはいえ、繰り返すように、それを、安易に人麻呂の実像(伝記的事実)と結びつけてはならないだろう。なぜなら、すでに『万葉集』のなかで、人麻呂の虚像化・伝説化は始まっているからである。人麻呂の実像をそこから復元することはもはや不可能であることを知るべきである。
前回連載で述べたように、梅原古代学は近代批判という当時の思想潮流を背景に生み出されたものである。民間の伝承によって国家の正史を覆すという構えも、一見すると反近代的に映る。だが古橋氏が的確に指摘している通り、伝承はフィクションではなく、何らかの歴史的事実を反映しているという発想そのものが、実は近代的なのである。
梅原古代学はその初発から深刻な思想的ねじれを抱えていた。しかし、後発の模倣者たちは、その矛盾に気づかず、表面的な奇抜さだけを縮小再生産していった。そこにはもはや、一片の学問的価値も存在しないのである。
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