「社会資本主義」への途 ⑧:「資本主義を理性によって精査する」方法の問題

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前々回:「社会資本主義」への途 ⑥:“Less is more.”は可能か?、前回:「社会資本主義」への途 ⑦:ヒッケルの「ポスト資本主義への道」への疑問、を受けて、引き続きヒッケルの「所論」を考えてみる。

環境に配慮した文明の構築

この問題が「想像をはるかに超える取り組み」(ヒッケル、2020=2023:256)であることには異論はない。各人がそれぞれの立場で試行錯誤しながら、成果を競い合ってきた。ヒッケルの場合の問題はその方法論にある。

仮定法の駆使

その特徴の一つに「仮定法」がある注14)。「精査」するからには「仮説の帰結として予見された事実」(旧字旧仮名変換は金子、ポアンカレ、1914=1939:304)を確認するための観測、実験、調査などで確証する作業を含むが、それらをほとんど省略して、ヒッケルは単なる「仮定法」を多用した。以下、本文からの事例を紹介してみる。

(1)「2020年までの上昇率がこのまま続けば・・・・・・・、今世紀末には4℃上昇すると言われる」(傍点金子、ヒッケル、前掲書:18)。

いうまでもなく、この言明の根拠はIPCCなど「二酸化炭素地球温暖化」論を主導するグループによるシミュレーション結果である。観測、実験、調査では証明できない2100年の大気温度4℃の上昇予想が独り歩きして、世界各国に現在の行動変容を迫った典型的な例である。

Simulationの原義

ただし、英語辞典でsimulationを引けば、「ないものをあるように見せる」という意味が書かれている。これを受けて私は、「大気温度4℃の上昇」こそがまさしくシミュレーションの典型そのものだと考える。念のためにいえば、反対語のdis-simulationは「あるものをないように隠す」と説明されている。

すなわち、大型コンピューターへの入力データ次第でいろいろなアウトプットが得られるシミュレーションに依拠するだけでは、科学的方法には程遠いのではないか。たとえば、2050年の1.5℃目標でさえ「過剰対策」とする「懐疑派」の立場からは、

  1. 温暖化メリットを考慮に入れていない
  2. 地球寒冷化による「凍死の死亡率」を無視している
  3. 温暖化による植物成長へのメリットとして農産物が増えることへの評価
  4. 脱炭素化よりも、被害が大きいと予想される「熱帯に焦点を絞った適応」の必要性

などが指摘され、新たな提案がなされている(池田、2023)。

科学と称される1990年代以降の「二酸化炭素地球温暖化論」には、1980年代末までの「地球寒冷化論」と比べてもメリット・デメリットがある(金子、2023a:243-244)。これらの比較検討を行わず、近代科学の二元論そのものを否定したアニミズムを現代資本主義に対置することは科学的方法としては安易すぎる。

「気候変動・脱炭素」論のウソ

(2)「気温が3℃か4℃上がれば・・・・、海面は1メートルから2メートル上昇する可能性がある」(傍点金子、同上:19)。以下、(1)と同質の典型的仮定法が(6)まで並ぶ。

(3) 「気温が3℃か4℃上昇すれば・・・・・、氷河の大半は・・・・・・消滅し、その地域のフードシステムの根幹を破壊し、8億人を苦境に陥れるだろう」(傍点金子、同上:20)。

(4)「森林が枯れたら、・・・・・・このまま行けば・・・・・・・、今世紀末までに森林の大半はサバンナに変わる」(傍点金子、同上:22)。

(5)「氷床は・・・・・・おそらくわずか20年から50年・・・・・・以内に融解する恐れがある・・・・・・。もしそのようなことが起きるなら・・・・・・・・・・・・・・・、・・・・・・海面が1メートル以上、上昇する可能性がある」(傍点金子、同上:22-23)。

(6)「もし、2℃上昇すれば・・・・・・・・・・、・・・・・・地球を恒常的な「温室状態」に追いやるかもしれない(傍点金子、同上:23)。

ここでも仮定法が乱発されるが、その後も随所で使用される。これらについては懐疑派のまとまった反論が常時対置されてきた注15)

認識の相違

(7)「過剰な生産を減速し、不要な労働から人々を解放すれば・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、・・・・・・」(傍点金子、同上:23)。その方法まで論じなければ、この文章のもつメッセージは読者には届かないだろう。連載⑦で述べたように、時代によって、国の経済発展段階に応じて、「過剰な生産」も「不要な労働」も異なるから、このような一般論の意義はほとんどない。

(8)「気候の安定化が失敗したら・・・・・・・・・・・・、・・・・・・原子力発電所は、放射能爆弾と化す恐れがある」(傍点金子、同上:150)。これもまた認識の相違であり、台風、集中豪雨、線状降水帯の発生、暴風雪などを人為的に制御できないと私は考えるので、「気候の安定化」という表現そのものを使わない。気候は人間活動に影響は与えるものの、人間活動が気候そのものを動かせるとは思われないからである。

(9)「高所得国は成長する必要がない・・としたら、・・・・・・わたしたちの文明と地球を、成長要求という束縛から解放する方法があるとしたら」(傍点原文、同上:170-171)。これらを批判して、「まったく違う種類の経済を想像」(同上:171)した結果、ヒッケルは Less is more にたどり着いた注16)

資金移転だけでは貧困解決にはなりえない

(10)「1%の最富裕層の過剰な年間所得のうち、10兆ドルを世界の貧困層に移すことができれば・・・・・・・・・、貧困を一気に終わらせ、・・・・・・世界の健康格差をなくすことができる」(傍点金子、同上:197)。

これができればとは願うが、たとえ10兆ドルが移転されても、「貧困は一気には終わら」ない。なぜなら、健康は医療制度の構築、医療従事者の養成、病院の建設とアクセスのしやすさ、使われる医療機器の水準、薬の種類と適正価格、さらにその国の国民の栄養状態や健康知識を伴う日常生活全般、そして政治の基本方針などに左右されるからである。要するに、豊かさも貧しさも「お金」の問題だけの議論では片付かない。

(11)(世界銀行、IMF、WTOなど)の「機関を民主化すれば・・・・・・、グローバル・サウス諸国は、・・・・・・自国の経済政策をよりコントロールできる」(傍点金子、同上:200)。

「民主化」を唱えて、事態が好転した事例は各方面を調べてもほとんどない。なぜなら、「民主化」はもはやマジックワードに過ぎないからである。

「成長なき繁栄」の事例はどこに?

(12)「成長しなくても繁栄できることを理解したら・・・・・、私たちの視野は一気に広がる」(傍点金子、同上:209)。

これはどのようなメカニズムなのか。また、「成長なき繁栄」はどこで証明されたのだろうか。この発言の背景には、

  1. 経済の物資・エネルギー消費を削減して、生物界とのバランスを取り戻す
  2. 所得と資源をより公平に分配する
  3. 人々を不必要な労働から解放して繫栄させる
  4. 必要な公共財への投資を行う

というヒッケル独自の認識がある(同上:210)。

しかし、いずれも主体論があいまいで、次の段階に移れない。ヒッケルは「最終的には経済全体の仕組みを変える必要がある」(同上:210)というだけであった。

「経済全体の仕組み」とは金融制度、株式制度、貨幣制度、働き方、休暇・休業制度、租税制度、医療制度、介護保険制度、年金制度、教育制度など多岐にわたるが、何を想定した発言なのだろうか。これらの詳細な議論が省略されているために、その趣旨がまったく伝わってこない。

「半減」だけで世の中が変わるのか?

(13)「もしわたしたちが消費する製品の量が半分になったら・・・・・・・、・・・・・・生産する工場や機械は半分になり・・・・・、・・・・・・輸送する飛行機やトラックや船は半分になり・・・・・、・・・・・・廃棄処理に必要なごみ収集車や廃棄物処理場は半分になり・・・・・、このすべてのインフラを製造・維持・操作するために必要なエネルギーは半分になる・・・・・」(傍点金子、同上:223)。

このような理性とは無縁のロジックによる探究が「ポスト資本主義」への道ならば、その方法では確実に失敗するだろう。なぜならある国の人口総数と年齢構成にふさわしい製品、生産工場、飛行機やトラック、廃棄物処理場についての考察が完全に放棄されているからである。「単純な半減」などはどの国の指針にもなり得ない。

さらに、想定外の緊急時の生産と在庫管理と配分方法についても無視している。「単純な半減」が不可能なことは、日本でも台風、集中豪雨、大地震、大豪雪などの被害の際に、水、電力、食料、生活雑貨などの集中的配分が求められる実情からも容易に理解できる。「半減」だけでは現在想定される様々なリスクに社会システムが対応できないことは、イギリスでも同様だろう。

希少性の逆行とは何か

(14)「成長のために希少性が創出されるのであれば、人為的に創出された希少性を逆行させれば・・・・・・、成長を不要にできる」(傍点金子、同上:237)。

これもまた連載⑦で触れた言葉の「綾」の類であり、希少性の逆行が、

① 公共サービスの脱商品化
② コモンズの拡大
③ 労働時間の短縮
④ 不平等を減らす

こと(同上:237)ならば、なおさらである。

地方都市のバスの運行は半官半民

①については地方都市や過疎地域でのバス運行が事例になる。日本でも公共交通網が便利な大都市とは異なり、鉄道も地下鉄も市電もない地方都市や過疎地域では自家用車しか頼れない。

ヒッケルは運輸を含む公共サービスの民営化を批判して、「解決策」として「脱商品化」を主張したが、日本の地方都市や過疎地域でのバス運行は「民営化」を前提とした補助金行政が主流であり、地方の都市自治体がわざわざ公費でバス運行を行うことは少ない。なぜなら、この方式こそがバス経営の「効率性」を阻害するからである。

ノウハウがなく、運転士や整備士も含めた技術者の養成までを都市自治体で行う「脱商品化」よりは、半官半民の方式によるバスの定時運行こそが「効率性」に富んでいる注17)

コモンズの拡大について

② コモンズの拡大もまた「言うは易く行うは難し」(Easier said than done.)の見本である注18)

コモンズについてのヒッケルの認識は、「牧草地、森林、川」という農民の「共同管理地」(同上:52)、あるいは「民衆に材木、家畜の餌、狩猟の場を提供していた共有地」(同上:65)という表現で示されている。いわば「自給自足農業と地域支援システム」としての位置づけであり、日本での理解とあまり変わらない。

日本でのコモンズ

日本での常識としてのコモンズの代表的事例は、農村における「入会地」が浮かんでくる注19)。言い換えれば村の「総有」であり、「共同占有地」でもある。それ以外にも、神社、共同墓地、集会所、灌漑地、道や小川、川や湖や潟の岸辺のヨシなども事例となる(鳥越、2023:96)。

コモンズだからそれはもちろん「皆のもの」なのだが、そこには「個別利用権」(同上:98)ないしは「私的所有権」が認められていて、その調整がかなり困難である。法社会学の廣田は、「大きな流れとしては、入会権における『総有』を参考にした『共存的所有』にもっていくことが望ましい」(廣田、2021:388)とした。

「総有」と「私有」

その理由は、合間を縫っていわゆる「フリーライダー」が生まれやすいからである。そのため、「コモンズの拡大」を主張する際には、現実的に拡大可能な地域空間の存在が必要であり、同時に「総有」と「私有」との関係性への目配りまで論じておきたいが、ヒッケルにはその配慮がまったくなかった。

その理由としては、「私有」を大原則とした資本主義社会において、どのような「総有」としてのコモンズを拡大するかへの発想が貧困であったことがあげられる。

これは「共生」とも重なりあうが、すでに「『共生』ということばを持ち出しさえすれば、たとえそれが消費されたものであったとしても、何か実のあることをやっているかのように思ってしまう危険性がある」(植田、2006:51)という危惧が示されている。この指摘はコモンズにもそのまま該当する。

思想と現実の因果関係の証明とは

(15)「スピノザの思想が主流になっていたら・・・・・・・・・、……わたしたちは生態系の崩壊という悪夢に直面していなかったのではないだろうか」(傍点金子、同上:237)。

「スピノザの思想」と「生態系の崩壊」の因果関係がヒッケルによって証明されているわけではないので、この仮定法にもコメントのしようがない。かりに精神界と物質界の事象が神の属性であるとする汎神論を受け入れたとして、それは火発、原発、水力、再エネなどのエネルギー問題とどのような関連が想定されるのか。

たとえそれによって生態系が維持されたとしても、「人間開発指標」(HDI)の一要素である平均寿命は伸びないだろうし、識字率も高まらないだろう。これらは近代化・産業化による恩恵であり、世界史的にも資本主義が達成されたGNで平均寿命が伸びているし、識字率も高いことは周知の事実である。

植物・動物も主体である

(16)「現象学は精神と身体を区別することをきっぱり否定したのだ。ひとたびこれを受け入れれば・・・・・・・・・、わたしたちの経験の領域に存在する他の『現象』や・・・・・・他の生物・・・・・・植物や動物も、等しく主観的経験を持つ存在であることを認識しやすくなる」(傍点金子、同上:272)。

庭のラベンダーも畑のミニトマトも牛や豚も「主観的経験を持つ存在」であるとして、それが何を意味するかといえば、「非人間も主体であることを理解することによって、まったく新しい地平に立つことになる」(同上:272)。

しかし、一元論でも二元論でも、主体としての人間は古今東西にわたり、主体である植物や動物を一方的に食料としてきた事実からすれば、何をどうすれば「新しい地平」に到達するか。

デカルトの『方法序説』

デカルトの『方法序説』に学んだ立場からは、(16)に関して「で、何なの?」という疑問がどうしても払拭できない。

むしろ人類史のイノベーションはセレンディピティを伴い、①明証性(速断と偏見を避け、疑う余地がない)、②分割性(問題をできるだけ多くの部分に分ける)、③順序正しい総合性(単純なものから複雑なものへ順序正しく考察する)、④枚挙性(見落としをしないようにすべてを見直す)などの「方法」が原動力になってきた(金子、2009:3-4)。

資本主義に対置できるのは互恵性だけではない

(17)「もし植物に知性があり・・・・・・・・・・、ある意味で意識さえ持っているのであれば・・・・・・・・・・・・・・、作物の収穫はある種の殺人行為に他ならない」(傍点金子、同上:283)。

であれば、ヒッケルは水しか飲まないのかといえば、もちろんそうではない。アニミズムを持ち出して、それらが「非倫理的な行いではない」理由として、「感謝の気持ちや互恵の念」をいだけば、「狩りや動物を食べる」ことも可能だとする。「相手を尊敬に値する主権者として認める」(同上:284)と食べてもいいという。

「感謝の気持ち」や「互恵の念」はどう表現するのかといえば、「過剰に搾りとらず、無駄にしない」ことに落ち着く(同上:284)。そしてこの論理こそが「資本主義の論理と真っ向から対立する」(傍点原文、同上:285)と結論した。

ここでいわれた「資本主義の論理」は私的所有、市場メカニズム、公的所有、合理性などのうちのどれを念頭に置いているか。おそらくはその直前に「過剰なスピードで消費が行われている現在の文化」(同上:284)が批判されているので、私的所有と市場メカニズムが想定されているのだろう。

しかし、「資本主義の論理」を全否定して「生態学」に任せることは不可能である。なぜなら、生態学が「生態系の健全さを理解し、管理することには長けて」(同上:285)いても、医療、教育、交通、財政、政治、文化、経済、都市づくりなどに関してはそれぞれの専門分化した科学には及ばないからである。

翻訳への疑問

以上、気がついた「仮定法」による議論の限界についてまとめたが、本書の翻訳についても少しのべておこう。その理由は、キーワードのinnovationに「技術革新」とイノベーションという二つの訳語が使い分けられているからである。

歴史的にはたとえば1970年代までの翻訳の場合、ロジャース(1962=1966)では「技術革新」が充てられ、9年後のロジャース(1971=1981)には「普及」が用いられていた。ただその後は、少なくとも21世紀になってからのinnovationは技術分野を超えて、文字通り経済、政治、社会、文化の各方面を含む包括性が共通認識になっているため、そのままイノベーションと訳されてきた注20)

そこで訳書を調べると、「イノベーション」が使われたのは、「はじめに」で2回、第1章ではどちらも登場しなかった。第2章では「技術革新」が2回、「イノベーション」が1回であった。第3章では「イノベーション」が8回、第4章でも「イノベーション」が5回、そして第5章では「イノベーション」が3回使われていた。そのため、第2章での「技術革新」と「イノベーション」の混在が大変気になるという訳である。

かりに「技術革新」の原語がinnovationではなかったのだとしたら、訳注により言語を示しておくのが訳者の義務だろう。また原語が同じだったのならば、どうして二種類の訳語に使い分けたかの説明も必要になる注21)

1500年以降は資本主義か

ヒッケルは「1500年以降、優勢になったその新しい経済システム」(ヒッケル、前掲書:73)や「過去500年にわたってこの地球を支配してきた資本主義という文化」(同上:256)として、産業革命期以降の資本主義成立史の標準的理解とは明らかに異なった認識を示している。

しかしたとえばアシュトン(1953=1973)は、「産業革命」の時代を1760年から1830年に限定して描いていて、この時代が「初期」という認識であったと受け止められる。なぜなら、この期間の中ほどに「産業資本家たちが国家における一勢力・・・おそらくは最大の勢力・・・となった」(アシュトン、前掲書:149)からである注22)

ウェーバーの近代資本主義の成立史

「合理的資本計算」を軸として、資本主義の成立史をウェーバーは次のように描いている。

たしかに、歴史の凡ての時期において種々の形態を有する資本主義が出現した。この事実は否定しがたい。しかし、日常需要が資本主義的な仕方で充足されるという事実は、ただ西洋にのみ特有であり、しかも西洋においてもようやく十九世紀の後半以来の出来事である。その他の時期においても、古い時代に資本主義の萌芽と認められるものがあったが、これらは全くその先駆にすぎない。(旧字旧仮名変換は金子、ウェーバー、1924=1955(下):120)

「資本主義」の具体的な指標として、①すべての物的獲得手段の私有、②市場の自由、③合理的な技術、④計算可能という意味の合理的法、⑤自由なる労働、が挙げられた(同上:121)。

これはアシュトンとも重なり合うので、ヒッケルの1500年以降が「資本主義」という認識についても疑問を呈しておこう。

注14)これは斎藤(2020)の方法と同じであり、「勝手なイフ論」と命名できる(金子、2023a:246-249)。

注15)これらに対する批判は渡辺(2022)に詳しい。ただし、ヒッケルへの直接的批判ではなく、「二酸化炭素地球温暖化」論を主導する国連全体やIPCCなどの機関に対して、自然科学者の目から見た判断である。

注16)ヒッケルの主張が持つ基本的な問題については8月1日の連載(7)で論じた。

注17)地方圏における公共交通の現状と問題点については田中(2007)の第11章に詳しい。

注18)なお、フランス語では“La critique est aisée,l’art est difficile.”(批評はやさしいが、芸術はむずかしい)と言って、「批評」と「芸術」を具体的に対比させることわざになっている。ことわざに込められた「民衆知」は、時として科学的研究成果としての「学問知」を超えるところがある。詳しくは金子(2020)を参照してほしい。

注19)「入会地」研究については農村社会学や日本史で多くの業績が出されてきたが、「資本主義の終焉」論に絡めて「入会集団」や「入会権」を法社会学の立場から詳細に研究した成果としては廣田(2021:381-391)、および廣田(2022:144-158)がある。

注20)近著でいえば、野城(2016)やマルガン(2022)が挙げられるが、いずれも「技術革新」ではなくイノベーションを使っている。

注21)なぜなら、読者が訳書の他に原書を購入することがほぼないからである。

注22)ただし、アシュトンは「資本主義」という用語を使用しなかったことに注意しておきたい。

【参照文献】

  • Ashton,T.S.,1948,The Industrial Revolution, Home University Library.(=1973 中川敬一郎訳『産業革命』 岩波書店).
  • Descartes,R.,1637,Discours de la méthode.(=1997 谷川多佳子訳『方法序説』岩波書店).
  • Hickel,J.,2020,Less is More: How Degrowth will Save the World. Cornerstone.(=2023 野中香方子訳 『資本主義の次に来る世界』 東洋経済新報社).
  • 廣田尚久,2021,『共存主義論』信山社.
  • 廣田尚久,2022,『ポスト資本主義としての共存主義』信山社.
  • 池田信夫,2023,「IPCCは1.5℃目標と『2050年排出ゼロ』を卒業する」アゴラ言論プラットフォーム8月3日.
  • 金子勇,2009,『社会分析』ミネルヴァ書房.
  • 金子勇,2020,『ことわざ比較の文化社会学』北海道大学出版会.
  • 金子勇,2023a,『社会資本主義』ミネルヴァ書房.
  • 金子勇,2023b,「社会資本主義」への途⑦:ヒッケルの「ポスト資本主義への道」への疑問」アゴラ言論プラットフォーム8月1日.
  • Mulgan,G,,2019,Social Innovation :How Societies Find the Power to Change. Policy Press.(=2022 青尾謙訳『ソーシャル・イノベーション』ミネルヴァ書房).
  • Poincaré,H.,1914,Dernières pensées.(=1939 河野伊三郎訳 『晩年の思想』岩波書店).
  • Rogers,E.M.,1962,Diffusion of Innovations,The Free Press.(=1966 藤竹暁訳 『技術革新の普及過程』培風館).
  • Rogers,E.M.,1971,Communication of Innovations:A Cross-Cultural Approach, The Free Press.(=1981 宇野善康監訳『普及学入門』産業能率大学出版部).
  • 斎藤幸平,2020,『人新世の「資本論」』集英社.
  • 田中重好,2007,『共同性の地域社会学』ハーベスト社.
  • 鳥越晧之,2023,『村の社会学』筑摩書房.
  • 植田晃次,2006,「『ことばの魔術』の落とし穴」植田晃次・山下仁編『「共生」の内実』三元社:29-53.
  • 渡辺正,2022,『「気候変動・脱炭素」14のウソ』丸善出版.
  • Weber,M.,1924,Wirtschaftsgeschichte,Abriss der universalen Sozial und Wirtschaftsgeschichte,(=1954-1955 黒正巌・青山秀夫訳『一般社会経済史要論』(上下)岩波書店).
  • 野城智也,2016,『イノベーション・マネジメント』東京大学出版会.

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