(前回:高田保馬の「感性」と「理性」⑤:『望郷吟』にみる「老いの諦観」)
父の歌
高田保馬は父が50歳で、母が43歳の時に高田家の末っ子として生まれた。長兄は24歳上で、当時は伊勢の四日市で歯科医を開業していた。高田16歳の時に父親が亡くなり、34歳でその長兄を失った。すぐ下の次兄は5歳で他界していたので、定位家族(family of orientation)の中では母親と姉しか残らず、その母親とは高田39歳の1922年に死別した。
高田が残した『ふるさと』(1931)、『洛北集』(1943)、『望郷吟』(1961)の三歌集を読むと、父を題材にした作品の少なさに気づく。私が数えたところでは、以下の五首に止まっている。その象徴が『望郷吟』(1961)の「昭和二十九年」の二首にみられる。
郷里にて、
1.父母の 国に来にけり 天山の 姿ぞうつる 老いのまなこに
が詠まれた直後に、
2.たらちねも わが子も姉も とこしへに 眠らふ土の 村に来にける
がある。天山は高田生家から遠望できる背振山地の南西端の山であり、連載第3回で触れた。
71歳になり帰省した折に、天山を見た後で、徒歩で1分ほどの高田家所有の墓地に出かけたのであろう。現在は高田夫妻も同じ墓に埋葬されている(写真1)。
ただし1954年では父母、早世した長男と二女、そして姉が「とこしえに」眠っていた。しかし、2の「たらちねも わが子も姉も」で分かるように、「父」への言及はなかった。
このように、高田にとっては「血」のゲマインシャフトのなかに、母とわが子と姉は濃厚に意識されているが、少なくとも歌集のなかでは父の影が非常に薄いといえる。
その理由が『思郷記』(1941)に書いてある。
「父の没後に私は拙い挽歌を認めて兄に送った。感情に強い兄は、苦しいからこんな歌は送ってくれるなといってよこした。私はそれきり父を思ふ歌を作らなかった」(『思郷記』:20)。
この理由で父が歌の題材にならなかった。しかし『思郷記』冒頭では、「父の追憶」が11頁にわたり書かれていることを付加しておこう。
わずかな歌としては、『洛北集』(1943)の「昭和十五年」に詠まれた作品に、
憶父(12月病院にて)
3.若くして 別れし父の おもかげは 思ひかへせど たゝおぼろなる
がある。確かに16歳で「若くして別れし父」ではあったし、ましてや本人が入院中のことでもあり、思い返しても「おぼろげ」にしか浮かんでこなかったのだろう。
4.あわたゞしく 經(へ)にけるものか 久しくも しみじみ父を 憶はざりける
この年60歳までの年譜を見ると、父と死別してから、高田は居住地だけでも熊本、京都、広島、東京と変えて、6回の病気入院をしている。しかも母が亡くなり、その2年後には長男が25日で逝去して、翌年生まれた二女もまた5歳で病死した。
1957年の『学問遍路』でも、「いつまでも五つと一つ 幼きままの二人の吾子よ たましひの行方は知らね 想ひ出はさやかなり 親の心に」(:58)と記している。
実に公私ともに「あわただしい」暮らしであった。時の経過は16歳までの記憶を多少とも風化させるから、「久しくも」父のことを思い出さなくても無理はない。
なお、『高田保馬自伝「私の追憶」』(2022)でも、「本来どこかに気を負うて立ちたがる傾向をもつ私が本質的に感傷的であり、ゲマインシャフト的(共同社会的)であるのも、あふれるばかりの母と姉との恩愛にひたりつつけたからであろう」(同上:10)と自己観察している。
5.老いづきて 鏡に映る わが眉の いみじきかなや 父に似ること
では、長く忘れがちだった父ではあるが、鏡に映るわが顔が「父に似る」ことに気が付いたのも加齢効果によるものであった。
一般的にも、若い時はそうでもないが、加齢により親のどちらかに似てくることは珍しくない。高田の場合は父の眉に似てきたが、顔のしわの位置、目元、鼻やあごの表情、声の質など似てくるところはいくつもある。しかもそれを「いみじきかな」と嘆いている。同じ一首が『思郷記』の21頁にも並べられているが、時間的にはこちらが初出であり、その2年後の『洛北集』(1943)に採録されたことになる。
「いみじ」の語釈
『基本古語』での「いみじ」の語釈は、①すばらしい、立派だ、②ひどい、とんでもない、に分けられているが、ここでは「とんでもない」がふさわしい。『基本古語』の例文でも「これが顔を見るにその人と言うべくもあらず、いみじきさまなれど、わが男に似たり」があげられている。
「かな」は感動・詠嘆をあらわす終助詞、「や」は係助詞で、表現を切断しながら余情を続けるように作用する。年を重ねて鏡を見たら、自分の眉が父のそれに似てきたのが「いみじきかなや」だったことから、高田はそれが嫌だったのであろうと解釈しておこう。
6.足ずりて 門(かど)を行かせし おもかげの 四十年(よそごせ)にして いまなほ残る
7.中風の 右手うごかず おはしけり それのみが見ゆ 父を思へば
この二首で、父が中風により「右手うごかず」「足ずりて」の状態にあったことが分かる。
「父は五十九歳で一度脳溢血になり、一旦は快癒して六十一歳のときに再發、それからは半身不随の身となり、僅かに一町位の距離を歩くだけで言葉も不自由勝であった」(『思郷記』:12)。
死別後40年経過しても、そのおもかげのみが残るというのである。「泣き中風の父は喜びにも悲しみにもただ泣くばかりであった」(『思郷記』:21)が、父の「憶ひ」の核にある。
なお、「見ゆ」は見えるでもよいが、『基本古語』での「見慣れる」に従っておこう。
母の歌
父の歌と比較すると、母を詠んだ歌は非常に多い。『ふるさと』(1931)、『洛北集』(1943)、『望郷吟』(1961)の三歌集ではいたるところで詠われている。まず『ふるさと』から代表的な歌を選んでみよう。
高田は1914年9月(31歳)の時に、フランス語経済書講読担当として京都帝国大学法科大学講師に採用されて、大学教師生活が始まった。その年に、
8.秋の風 枕を吹けば 放浪の 子も思ふなり 母の白がみ
が詠まれた。高田でさえも大学院を修了して、1913年には『分業論』という単著を刊行していたにもかかわらず、大学のポストは社会学担当ではなく、経済学講義でもなく、「外書講読」しかなかったのである。
これは1960年代の高度成長期以降に、大学新設ラッシュで社会学のポストが着実に増えていった時代からすると、信じがたいことである。
放浪時代
「放浪」は文字通り定職が得られず、従って定住もままならず、結婚もなかなかできない状況を象徴することばである。上の句の「秋の風」が「放浪」と重なり合い、英語表現“He was wandering up and down aimlessly.”が浮かんでくる。
ただし、高田の暮らしはaimlesslyではなかった。というのは、年譜によれば、当時カーネギー平和財団の研究費で、「徴兵制度」と「その経済的影響」についての調査を行うために、全国の師団、連隊、鎮守府の所在地のうちから九州、四国、北海道のそれらを選んで出かけていたからである(『私の追憶』:53-55)。
その調査の合間に、テーマを「母の白がみ」としてこの一首が詠まれたのであろう。母親のクスはこの年73歳であったから、髪には白いものが目立つ年齢になっていたはずである。高田の述懐は続く。
「郷里には、七〇の老母、私のことだけを案じてくれるのに、何の孝養もすることはできぬ。大学内の空気は何となく重苦しい」(同上:76)。
その翌1915年に31歳で、神埼実業銀行頭取の三女きぬと結婚した。
そして1916年に、
小草
9.小さきは 小さきまゝに 花咲きぬ 野邊の小草の 安けさをみよ
が詠まれた。この歌碑が高田の母校三日月小学校の校庭に建立されている。
高田自らが数千にのぼる作品のうちから「一つあげよ」といわれるのなら、この一首であると明言した作品である(『私の追憶』:79)。本人による解説も詳しい。
「これは作った歌ではない。人類という雑草の一本としての私の心の中から、おのずからはきだした一首である。学校の空気は私にとって重苦しい ・・・・・・一本の野草といえども安らかに紡がれる花を咲かせている。(中略)空元気は、いろいろ示してみるものの、いずれは土水因縁あり、相集まって成せるこの一つの生命、野草の花と私の書きだすものといずれは同じ類ではあるまいか」(傍点金子、同上:79-80)。
傍点の部分がすぐ直前にもあることにより、30歳までの「放浪」は高田には辛かった毎日だったのであろう。
伊藤整が『文学入門』で力説したように、「いろいろな生活の環境の変化に応じて、周囲の条件の許す限度まで力一杯に個性を発揮した時に、はじめて、その個人は生きている」(伊藤、1954:237)姿そのものである。
『社会学原理』はうっぷんの晴らし場
大著『社会学原理』の執筆の期間は、「一難つづいてその上にまた一難が重なってくる」(『私の追憶』:77)とした。そのためか、「事実上、『社会学原理』は当時の私のうっぷんの晴らし場であった」(同上:67)という記述さえある。また『社会学原理』が「反抗の書」(同上:116)でもあったと書いている。これこそが当時の高田の個性なのであった。
今日的な評価では、日本の理論社会学を世界標準に押しあげて、実質的に最初に日本社会学を体系化した『社会学原理』が、高田本人にとっては「うっぷん晴らし」ないしは「反抗の書」であったのである。
なぜなら、「京都大学内ではどっちに向かっても渺たる存在である、というよりも存在は認められない。物を書いても評価も反響もきこえてはこない」(同上:67)だったからである。「渺たる存在」とははるかにかすんだ状態のことであり、これは辛いものであったろう。
そして刊行した『社会学原理』を従兄に送る日に詠まれた歌が、
1919(36歳)
野火
10.柳の芽 少し靑みぬ ふるさとの 母見む日はや 指に足らずも(社会学原理を従兄に送るとてその扇に記したる)
である。約3年かけて、「うっぷんのかたまりであるとともに、人類社会形成という人道的熱情の結晶である」(『私の追憶』:68)を完成させて、従兄に送ったのである。なぜなら、一番世話になった長兄はその前年に亡くなっていたからである。
巻頭には「老いませる母上の喜寿の記念に」がささげられ、その裏には8の歌
あきのかぜ まくらを吹けば 放浪の 子も思ふなり 母の白がみ
ー 大正三年十一月下鴨糺森にて
として採録されていて、別の一首も付けられている。
この森嶋通夫が命名した「大和」でもあるこの大著とその延長上に書き下ろされた『社会学概論』(1922)こそが、日本の社会学の夜明けを告げる金字塔になった(写真2)。
『社会学原理』は1919年2月刊行なので、「柳の芽が少し青めぬ」時期である。ふるさとにおわす母に会ってから、指で数えてもその数だけでは足りないくらい長い年月がたってしまったなあ、という感慨がそこにある。ちなみにその年の6月に高田は広島高等師範学校教授として広島に2年間住むことになり、ふるさとには帰れなかった。
『ふるさと』では10のすぐ横に、
11.ふるさとの 山はなづかし 母の背に 昔ながめし 野火のもゆるも
が並べられている。連載第2回目に短冊で紹介した歌であり、これもまた高田の代表作になっている。
「ふるさとの山」は繰り返し紹介した天山であり、「野火」は野焼きであることも連載第4回の12で触れた。望郷の景観として天山と野火が用いられ、それを母の背からながめた幼い頃の追憶になっている。「野火はもゆる」が春の景色は霞んでいない。むしろくっきりとした山の姿が見えてくる。
1920(37歳)でも
母
12.そのねいき かすかに耳に 通ふなり 夜ふけをさめて 母を思へば
が詠われた。深夜に目覚めて、在りし日の母を思い出したら、同居していたころの母のねいきが伝わってきたというのである。「ねいき、かすか、夜ふけ」でしんと静まり返った室内での思い出は生家での一コマであるが、思い出したところは広島の家である。
前年に刊行した『社会学原理』を携えて、高田は広島高等師範学校教授として赴任していたからである。そこでの暮らしは『私の追憶』に詳しい。週に経済原論2時間、社会学概論4時間、英語4時間であり、「広島2年、勉強はしなかったが伸び伸びと自由を満喫した」(同上:95)とある。
しかし、その自由が飽食をもたらし、「30年にわたる胃病の素地を作った」(同上:95)とも反省している。その結果、「物があり余って私は大病になって行く」、「飽満によって精神も肉体も蝕まれる」(同上:96)という自己診断が綴られている。
なお、前年の1919年に、
13.いつしかと 今年も秋の 風ぞ吹く 母とはならぬ 妻とわが身に
が詠まれた。これは、結婚が1915年であり、それから4年が経過したからなのだろうか。これを受けて、『私の追憶』では次の記述がある。
「新婚後六年間、京都の空気の中では子が生まれなかった。広島に来て山も川も伸び伸びと生活させてくれるところで、生命はひとりでに恵まれてくる」(同上:98)。
1920年に長女が誕生したのである。ここでも「母が郷里から出てきて赤ん坊をだいた時の喜びを今も忘れえない。私もやっと親孝行をすることができたと思ってほっとした」(同上:98)と続けた。「血の結合体」としてのゲマインシャフトが言葉で表現されている。
1922(39歳)の11月に母クスが亡くなる。その直前に詠われた一首
14.病む母を 置きて旅立つ 秋風の 此肥の國の はなれあへぬも
がある。病気の母親を気遣う高田の気持ちがそのまま詠われている。
1921年6月から東京商科大学教授になっていたから、22年の「旅立ち」は肥前佐賀の実家から東京行きなのであった。
「病む母、秋風、はなれ、あへぬ」が相乗効果を出していて、「旅立つ」際の不安でやるせないこころが表現されている。しかも「はなれあへぬも」なのであり、一旦東京に出れば、母親とは「はなれる」だけではなく、もう「あへぬ」という諦観が「も」に込められている。
この「も」は、『基本古語』における説明の「ある事物が他と同様の条件・状態であることを示す」で解釈しておきたい。すなわち、「はなれる」とともに、「あへぬ」状態になるのである。
そして母の逝去後には、
15.田の蛙 ゐまさぬ母を 思ふまに ふけにけるかな さえわたる聲
がある。この場所は生家であろうが、蛙の季語が春であること、そして「さえわたる聲」なので、詠まれたのは12月や1月2月の冬ではないと思われる。
春のある日、近くの田にいた蛙を見ながらなくなった母親を偲んでいたら、あっという間にその蛙が「ふけにける」すなわち逃げていき、行方が分からなくなった。しかし鳴き声がどこまでも澄みわたる情景が浮かんでくる。視覚と聴覚が合体している。
その後も、どこに行っても、何をしても、高田は終生母を憶う歌を詠み続けた。『ふるさと』から三首を選んでおこう。
1923(40歳)には
小濱温泉にて
16.多良岳や ながむれどはや そのはてに われを思はむ 母はゐまさず
がある。多良岳は長崎県と佐賀県の県境にある多良火山群の主峰であり、頂上には多良岳神社や金仙寺などがある。多良岳は三日月村の生家からは西方に当たるが、小濱温泉からは北方になる。その視線の先には生家があるのだが、そこで自分を気にかけてくれていた母はもはやいない。ここでは空間的な距離感が越えられない悲しみが詠われている。
1925(42歳)では
17.桃さけば たらちの母の 背恋し かへり得らるゝ 昔ならねど
というように、桃を食べる時にも幼い頃に母の背におんぶされた自分の姿を追憶する。しかし、もちろんその昔には帰れない。この時間の流れの無常さがどうにもならないほど悔しいと言っている。なお、桃の花の春だが、桃の実は秋の季語になる。秋の午後の一首であろう。
18.椋の葉の 散れども母を 思はざる この淋しさも 四とせなりけり
山を見ても、桃を食べても、そして亡くなって4年が過ぎて、椋の葉が散る情景においても、高田の母への憶いは強いものがあった。4年という月日が過ぎたにもかかわらず、晩秋の情景とともに、心の淋しさがずっと続いている。
1926(43歳)でも、
島原の町
19.旅にして われ思ふとも たらちねの まちておはさぬ ふるさとの家
と詠っている。島原だからそれほど生家から遠い町ではないが、旅先でもふるさとを偲ぶとその中には母親の姿があるであろう。現実はもちろん「まちておはさぬ」のだが、母親とふるさとは緊密に結びついている。
『ふるさと』の「跋」の末尾には、「長い間、病と戦ひ世と戦ひたる私の、今までの記録はこれである。昭和六年二月二十七日郷里の書斎にて」と記されている。連載第4回の「写真2」で紹介した書斎である。
「病と戦ひ世と戦ひ」ながら、この年までに社会学書の代表作をほぼ書き終えていた。森嶋通夫が「大和」になぞらえた写真2の『社会学原理』(1919)、『社会と国家』(1922)、日本初の本格的概論書『社会学概論』(1922)、『階級及第三史観』(1925)、『社会関係の研究』(1926)そして同じく森嶋が「武蔵」と称した『経済学新講』(全5巻、1929-1932)であった。
マルクス、デュルケーム、ジンメル、ウェーバーなどに比べればずっと新しく、生誕が同じ年のケインズとシュムペーターとは同時代の作品群なのに、日本の学界も出版界もこの80年間は「読まぬ論ぜぬ」を貫き通してきた。
(次回につづく)
【参照文献】
- 伊藤整,1956,『改訂 文学入門』光文社.
- 高田保馬,1919,『社会学原理』岩波書店.
- 高田保馬,1931,『ふるさと』日本評論社.
- 高田保馬,1943,『思郷記』文藝春秋.
- 吉野浩司・牧野邦昭編,2022,『高田保馬自伝「私の追憶」』佐賀新聞社.
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