(前回:昭和百年の礎:杉浦重剛のご進講「考」⑥:「教育勅語」のご進講(1))
第六回 朋友相信じ、
「友を択ぶの必要」:人の賢愚は友に倚ること甚大なので、良い友を択んで切磋琢磨し、崇高なる品性を養成するべきである。杉浦は「水」「鏡」「時計」の篇で「朋友の価値及び徳の重大なことは知了し給ひしなるべしと信ず」と述べている。「修身の題目として異彩を放つ」これらの進講で、杉浦は「次第に転じて、道徳に入る趣向」を展開したようである。
「信と友情との継続」:交友の道は信の一字であり、信とは至誠の心を以て人と交わるの徳である。その交わりは年と共に親厚なるべし。一度友として交われば、地位の高卑に関わらず永遠の交わりを継続すべし。
第七回 恭倹己を持し、
「恭倹の字義」:恭とは謹直にして傲慢ならざるをいい、倹とは節慾にして自己の行為を制約し、放縦に流されざることをいう。この二字は共に礼節の意味を含む。「みのるほど首をさげる稲穂かな」は、品性崇高なる人は何事にも恭敬、謙譲の態度を以てこれに臨むことをいう。
第35代皇極天皇は、蘇我入鹿を誅した中大兄皇子(後の第38代天智天皇)に譲位しようとした、だが皇子は第36代孝徳天皇に譲った。孝徳天皇が崩御し、皇極天皇が再び践祚(第37代斉明天皇)したが、皇子は斉明天皇崩御後6年間殯(もがり)し、葬った後に漸く践祚した。これは恭敬・篤譲の故事であり、また仁徳天皇の「民の竈」は倹素の故事である。
第八回 博愛衆に及ぼし、
「博愛とは何ぞや」:「我が身を抓って人の痛さを知れ」「己の欲する所を人に施せ」とは同情を訴える道徳的命令である。同情は人それぞれだが、それを拡充すれば博愛となる。ゆえに博愛とは報酬を求めない利他的感情より起こる同情である。
「博愛の方法」:博愛を行うには先後緩急の順序があり、遠くより近くに先ず及ぼすこと。自国民を顧みずに他国民のためにするが如きは、売国奴であって許されない。自己に関係の深い者に義務を尽くすと同時に、余力を以て広く他人を愛すべし(ならば、トランプの「America First」は紛れもなく「博愛」であろう)。
第九回 学を修め、業を習い、以て智能を啓発し、特器を成就し、
「学を修むべき事」:国家有用の者になるには学問を修め、業務を習い、己の知力を啓発することが必要だが、それだけでは道徳的人物として完全にはなり得ないので、修徳に努力せねばならない。人の世に処し、国家に貢献するためには道理を弁じ、己の活動を正確にしなければならず、それには智識を開発するために学問を修めねばならない。特に帝王たる者は、学問を修め、帝王としての努力を養成せらるべし。この種類の学問を帝王学と称す。
「業を習うべき事」:学問を修めて道理を知っても、これを実地に応用しなければ効果がない。ゆえに富貴貴賤の差別なく何か一定の業務を習い、国民としての本分を完うすべし。世界の列強が日々激烈な競争をする今日、一日の怠惰は一日国運の退歩を意味する。国民たるもの各自の職に勤勉怠らず、国力の発展に資すること。国民は、職業を以て貴賤なりとするような昔の弊風を一掃せねばならない。いわんや職業間に高卑の差を付するにおいてをや。
「以て智能を啓発し」:学を修めて業を習う理由は智能を啓発するためである。世界各国は科学の発展を競い、学術全般を研究することで民心の科学的精神を涵養している。我国の科学的文明は日が浅いが、西欧の数世紀の学術を半世紀で消化した。これは知的鋭敏な国民性による。
酔欧家は「日本人は模倣的民族にして創造の才なし」というが、これは時代と社会状態を顧みない論である。世界が知らぬ時代に関孝和は微積分を、伊能忠敬は測量術を発明した。中国の儒学や印度の仏教が今や日本の学や仏教となっていることも、大和民族が知的鋭敏な証拠である。
「徳器を成就し」:人が万物の霊長である所以は、人としての徳性を具備するにあり。俊才も博学も、善良なる道徳的品性がなければ真の人とは言い難い。「中江藤樹」「二宮尊徳」を見よ。
第十回 進んで公益を広め、世務を開き、常に国憲を重んじ、国法に遵い、
「進んで公益を広め、世務を開き」:公益の幸福を計り、世に必要な事業を興して、一般国民の生業を開くべきである。
「歴代の天皇、公益を広め世務を開き給ふ」:慈愛の心に富む歴代天皇は、率先して民の公益を広め、世務を開かれた。であるから、臣民たるものが公衆の利益を広め、世務を開くために公衆の智能の啓発に資し、不幸の人を救い、通行運搬の便を計り、荒地を開墾するなどを計るのは、人として最も高尚な事業である。
「常に国憲を重んじ、国法に遵い」:我国には昔から国憲があったが、成文律になっていなかった。その理由は、国憲があって憲法がないことが、健全な人が自分が健全だと気付かないのと同様に、実は我国の誇りであり、我国民の美点だったからである。しかし国政が複雑になるに従い、政治上成文律が必要となり、明治天皇が五箇条の御誓文を宣し給わり、これが帝国憲法の基礎となった。国憲を今は憲法というが、古代には大義名分といった。
第十一回 一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし。是の如きは独り朕が忠良の臣民なるのみならず、又以て爾祖先の遺風を顕彰するに足らん。斯の道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして、子孫臣民の倶に遵守すべき所、之を古今を通じて謬らず、之を中外に施して悖らず。朕、爾臣民と倶に拳々服膺して咸其徳を一にせんことを庶幾う。
「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」:国家に一旦危急の事変があれば、国民は正義の勇を奮って国家のために尽くすべし。義勇とは正義より起これる勇気であり、公に奉ずとは義勇を奮って国家のために一身を捧げることをいう。義勇奉仕は、外国に対するもの(北条時宗)、内乱に対するもの(楠木正成)、逆臣に対するもの(和気清麻呂)の三方面に発揮される。
「義勇奉公は忠君愛国に基づく」:前記のような勇武の民が現れる所以は、一に皇祖皇宗の徳を樹つること深厚にして、歴代天皇の鋭意君徳を養成し給いしに在る。殿下におかれましても、深くここにご留意ありて、君徳の御修養に努めさせ給わんことを望む。
「以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」:臣民たるものはこうした諸徳を実行して、万世一系、天壌と共に窮りなき皇運(皇室の運命)を扶翼(賛助)すべし。自らの徳を完成し、他人に対しても徳を及ぼし、自他ともに完全なる行いを履み、国家に対する徳を及ぼし、また平時の務めを完うして危急の事に及ぼし、そうして初めて皇運を扶翼することが可能になる。
「是の如きは・・・」:こうした行いをする臣民は、皇室に対して忠臣、祖先に対してはその遺風を発揮する孝子であり、こうした徳行を完成する臣民は、忠孝兼備の国民というべし。
「斯の道は・・・」:この道は皇祖皇宗の遺訓なれば、その御子孫なる天皇は、臣民と倶にこれを遵守させ給う。この道は時の古今、国の内外を問わず、これを行って間違うことはない。これ実に普遍的永劫的真理ということが出来る。
重剛も、かつて英国の友人が日本人は宗教なくしてなにゆえ尊敬すべき国民となれるかと、と怪しみ問い来たりし時、日本には皇祖皇宗の遺訓たる「教育勅語」があることを知らせた。すると友人は大いに敬服した。これにより、「教育勅語」が国外でも道理に反しないと判る。
明治天皇は「朕、爾臣民と倶に拳々服膺して咸其徳を一にせんことを庶幾う」と宣せられた。殿下におかせられても、御自身御実行あらせらるると同時に、いかにすれば臣民をしてこの道に進ましむるを得べきか、の一事に御留意あらせられんことを望む。大正4年3月御進講了
■
杉浦による「教育勅語」の進講は第1学年の1914年11月から翌年3月まで、皇太子13歳の時に行われた。殿下は初等科でもこれを暗誦したが、第三学年時(1910年:9歳)の「御心意状態」報告書によれば、「廸宮はね、朕というのは始のことで、こいねがう(庶幾う)はおしまいの事と思っていた」と述べられた(『昭和天皇のご幼少時代』NHK出版協会)。
それが杉浦の進講でどう深まったかの、陛下直接のお言葉を筆者は存じ上げない。が、終戦の年の9月27日、昭和天皇と会見したマッカーサー元帥をして、「個人の資格において日本の最高の紳士であることを感じとった」とその『回想記』に記させたこと、そして89年1月7日の崩御まで日本と国民のために祈り続けたことにより、国民は杉浦ら御用掛による御学問所での7年間の進講が、乃木大将の考え通りだったと窺い知るのである。
(その⑧最終回:「杉浦重剛と宮中某重大事件」に続く)
【関連記事】
・昭和百年の礎:杉浦重剛のご進講「考」①
・昭和百年の礎:杉浦重剛のご進講「考」② ご進講の題目と内容
・昭和百年の礎:杉浦重剛のご進講「考」③:「致誠日誌」を読む(1)
・昭和百年の礎:杉浦重剛のご進講「考」④:「致誠日誌」を読む(2)
・昭和百年の礎:杉浦重剛のご進講「考」⑤:「致誠日誌」を読む(3)
・昭和百年の礎:杉浦重剛のご進講「考」⑥:「教育勅語」のご進講(1)