故安倍元総理の国葬儀の日、9月27日がようやく来る。故人の治績とその人柄を反映し、海外218ヵ国の要人700人を含め4300人が参列、岸田総理は3ヵ日間の弔問外交を行う。海外からの弔意メッセージも1700通を超えた。筆者も多くの人々と共に改めて安倍さんを偲びたい。
近現代史を勉強する者の端くれとして、筆者はこれまで9月27日という日を、昭和天皇と初めて会ったマッカーサー連合国軍最高司令官が、「大きい感動にゆすぶられた」日として記憶していた。が、安倍国葬で、さらに一層忘れ難い日になる。別れの儀式が恙なく厳かに営まれるよう祈りたい。
が、残念なことがいくつかある。一つは、急逝したエリザベス女王の国葬が先に行われたこと。岸田総理の決断は良しとするも、この2ヵ月は余りに長く、要らぬ議論も呼んだし、両者を比較する論さえ巷に生んだ。折角の英断だったのにツキをなくしたか。トップには運も必要だ。
二つ目は、政府が「海外要人を含む参列者にマスク着用を求める」こと。ウエストミンスター寺院の参列者は両陛下も含め皆ノーマスク、中国代表の白マスク姿は異彩を放った。マスクなしの安倍国葬なら、国民みなが外したいマスクを「右へ倣えの民族性」で棄てる格好のきっかけになる。
さて、筆者は「英国が日本の独立に果たした役割の話」で、51年9月に我が国を国際社会に導いたサンフランシスコ平和条約(サ条約)での英国の貢献を書いた。本稿では、条約交渉に尽力し、戦後初めて国葬で送られた、そして条約署名の6年前、すなわち45年9月27日の昭和天皇とマッカーサーの面談をお膳立てした、吉田茂(1878年9月22日~1967年10月20日)の逸話に触れる。
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30歳に満たぬ高坂正堯が68年に世に問うた論考『宰相 吉田茂論』(中央公論新社)は、吉田茂研究の、また戦後日本政治史研究の、パイオニア的作品だ(同書端書)。その中で高坂は「吉田の三つの顔」として、「職人的な外交官」「頑固な親英米派」「臣茂」を挙げている。
外相になった吉田は終戦時の総理鈴木貫太郎を訪ね、敗戦国の外相としての心得を問うた。鈴木の「戦争は勝ちっぷりも、負けっぷりも良くないといけない」との話が気に入った吉田は、それを座右の銘に、「占領軍にも言うべきことは言い、聞き入れられなければ命令に従う方針で交渉に臨んだ」という。
実はこの話は45年4月5日の大命降下を遡る3月25日に、山本玄峰老師に説かれた話の鈴木の「受け売り」。老師の公案「どないして戦争を止めさせるんじゃ」の答えに窮する書生田中清玄に対し、老師は「日本は大関じゃから、大関は勝つのもきれい、負けるのもきれい。日本はきれいに、無条件で負けることじゃ」と言ったと『田中清玄自伝』に書かれている。
外交官としての吉田は20年間、専ら裏街道を歩んだ。出世街道の欧米首都でなく、奉天総領事など中国で11年も過ごした理由は、「言うべきことは言う」性格から、対華二十一ヵ条要求に堂々と異を唱えたからだ。本来なら免職ものだが、岳父牧野伸顕の威光で閑職に置かれただけで済んだ。
が、裏街道が吉田を成長させた。当時の欧米では、未曾有の大戦の前に外交の重要性が薄まり、ベルサイユ条約後の外交公開化で、職業的外交官の殻に閉じ籠ってしまったと高坂は言う。日本外交の担い手も、陸奥・小村らの外交家から、中型人物の秀才官僚外交官に固まっていく。が、政情複雑極まる裏街道で学んだ、秀才型でない吉田は「職人的な外交官」になった。
彼の外交官としての原体験は、このパリ講和会議に牧野や西園寺公望や随伴したことだが、サ条約の交渉でカンターパートだったジョン・F・ダレス米外交顧問も、陸軍本省戦時貿易委員会議長補佐として、パリ平和会議で条約の財政条項起草に参画していた。
このジョンがアイゼンハワー政権成立(53年1月)から54年9月まで国務長官を、弟アレンが53年2月から61年11月までCIA長官を務めた。つまり、冷戦初期の米国は、「強固な反共」のダレス兄弟が共産ソ連と鋭く対立する米外交の「表の舞台と裏の舞台を牛耳った」時代だった(『ダレス兄弟』草思社)。
吉田の二つ目の顔「頑固な親米派」は、牧野や西園寺が「英米強調論者の巨頭」だったことや、養父の吉田健三が、香港に本社を置く英企業ジャーデン・マセソン勤務の経験を基に興した船問屋で成功し、英国流ビジネスの雰囲気の中で育ったことで身に付けた英国精神が、満洲事変を巡る軍部との対立で助長されたことに由る。
31年、イタリア大使吉田は、国際連盟理事会が満州事変での日本の立場をかなり認めていると知り、独走する軍部に反対するだけでなく、33年にジュネーブに向かう松岡洋右に連盟脱退をしないよう忠告もした。斯くて親英米派として軍部に睨まれた吉田は、広田内閣での外相就任を陸軍に阻止され、36年に英国大使に転出する。
3年後に外務省を退官しても、牧野を通じて西園寺や近衛文麿との交流を保った吉田は、戦争突入が濃厚となった41年、米国大使グルーや英国大使クレーギーと連絡を取り、幣原喜重郎らと共に戦争の回避に尽力した。この時期に近衛と行なった和平工作に、「臣文麿」を模した「臣茂」を見ることができる。
45年2月14日に近衛が天皇に奉呈した上奏文には、敗戦後の共産革命への強い懸念が述べられている。吉田も貫いた「強固な反共」だ。が、牧野に見せるために所持していた上奏文の写しが、書生の密告によって憲兵に押収され、ついに吉田自身が拘束される憂き目に遭う。
筆者はこの頃の近衛の終戦に向けた動きにも、間接的に玄峰老師が影響したと考えている。おそらくそれは貞明皇太后を経由して近衛に伝えられていた。前述の『田中清玄自伝』には、当時大宮御所に居た皇太后が沼津御用邸を訪れるたび、そこを訪問したとしか思えない老師の行動が書かれている。
五摂家筆頭の近衛とその一つである九条家出身の貞明皇太后とは「古くから家族ぐるみの交流があった」。近衛は第一次近衛内閣当時の38年11月15日、西園寺の私設秘書原田熊雄にこう漏らしている(産経新聞連載『孤高の国母』原武史)。
一昨日皇太后陛下に拝謁仰せつけられた。その際皇太后様からしきりに、どうか難局をぜひ一つ充分に切抜けてもらふやうに頼む、まことに陛下もお並々ならぬ御心配であるから、どうか陛下を輔けて…と涙ながらにお話があつたので、実に弱つちやつた。
拝謁に訪れる将官らを迎え入れた皇太后は、命を賭して戦っている将兵を一途に激励した(原)。その一方、国民を苦しめる戦争の終結について玄峰老師と語らった皇太后は、近衛にその意向を伝え、それが上奏文にも現れたというのが筆者の推論だ。近衛はA級戦犯に指名されて自決する半月前の45年12月1日にも、軽井沢で貞明皇太后と昼食を共にした。
46年5月22日、幣原内閣の外相から総理となり、「マッカーサーと直接会うことを心掛けた」吉田を、高坂は「ここにも吉田の職人的外交術が現れている」とし、彼は「マッカーサーに頼み込んで好転するものと、どうにもならないこと」を「心得ていて」「できそうなことを(直接)陳情に及んだ」と書く。
85歳になった直後の64年9月30日、吉田はプリンストン大学の「ダレス文庫」に所蔵するために受けたインタビューで、マッカーサー(以下、元帥)とのフランクな関係を披露している(『ダレスと吉田茂』国書刊行会)。二つ引いてみる。
私は陸海軍人が嫌いで、元帥に「仮にダレス氏が再軍備のことを持ち出すなら、私自身が脅かされる」と伝えた。日本は秘密同盟(吉田と元帥の)を結んだ。・・私はダレス氏と元帥宅に赴いて「ダレス氏は全く以て難しい問題をもたらしました。再軍備です」と話した。元帥は私を助けて下さった。
当時・・国民が餓死しないために350万トンの穀物を輸入しなければならなかった。・・元帥は「総理は300万トンの穀物が必要と言ったが、・・70万トンが放出され、それでも餓死者がないと判った」と言った。私は「日本の政治の統計が正しかったら、戦争に勝っていました」と言ったよ。(笑)
吉田は外相としてもマッカーサーを直に訪うている。45年9月17日に東久邇宮内閣の外相になった3日後、陛下のマッカーサーご訪問の下打ち合わせにGHQを訪れていた藤田尚徳侍従長は、そこで吉田とすれ違う。後日、吉田は藤田にこう述べた。
GHQであなたに気付かず失礼した。・・実はマ元帥に、もし天皇陛下が、あなたを訪問したいと言われたらどうなさるか、と質問したところ、喜んで歓迎申し上げるとの返事だったので、この会見をどう実現したらよいか、しきりに考えながらエレベータを出た。侍従長におかれても会見問題を至急ご研究願いたい。
(『侍従長の回想』藤田尚徳)
この話も玄峰老師の「受け売り」の話も、いずれも昭和天皇に関係する。これが高坂の言う「臣茂」の顔であろう。斯くて45年9月27日、マッカーサーは「天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じ取った」。それから77年が経ち、また9月27日が来る。