百済は日本の大恩人だった?植民地だった?

誤解だらけの韓国史の真実 改訂新版』(清談社、5月4日発売)の刊行を機にした、日韓関係史の基礎知識の第9回である。

百済については、日本の古代文明は百済など半島からもたらされたもので、韓国(百済)は兄のような存在という戦後史観の主流派もいれば、「百済は日本の植民地のような存在だった」(日本国紀)というようなぶっとんだ主張もある。

日本より朝鮮半島のほうが古代においては先進地域で、一方的に日本が影響を受けるばかりだったと韓国の人は言いたがるし、日本人でもそれに洗脳されている人が多くいる。

たしかに、半島、とくに新羅は大陸文明の受容はたいしたことがないが、百済や高句麗は中国に地理的に近いため、その文明を取り入れるには有利だった。

百済の位置 Wikipediaより

しかし、『隋書』に「倭国は大国で珍しいものが多いので新羅や百済はかしこみ敬い使いを派遣している」とあるように、日本は農業を始め豊かな大国であり、独自の文化発展もあった。

いってみれば、江戸時代の長崎や琉球と上方や江戸、中世におけるイタリアとフランスやドイツのような関係であり、一方向でだけ人や文化が流れたわけではない。

継体天皇のときに百済に割譲した「任那四県」があった全羅南道の栄山江流域に前方後円墳があることなど象徴的である。

とくに、478年を最後に中国との外交関係を絶った日本は、百済を通じて中国の文物を輸入することにした。そのほうがコストも安く、言葉も通じやすく手っ取り早かったからである。とくに、百済には中国からの移住者も多くいたし、百済を通じて中国で技術者を見つけてもらうこともあった。

ただ、百済も見返りがなければ日本が望むものを渡さなかった。その見返りの最たるものが領土であり、日本の支配下にあった任那(伽耶諸国)のうち百済に近いところで百済が浸透していたところを譲ったり、百済と伽耶諸国の紛争で百済の肩を持ったりした。その結果が、伽耶諸国が新羅に接近することになり、いわゆる任那滅亡という事態になった。

この場合に、任那日本府というのは、朝鮮総督府のような直接的な行政機関ではない。しかし、なんらかのお目付役がいなかったと考えるのが普通ではないだろうか。現代で言えば、日本と伽耶諸国との関係は、親会社と海外で100パーセントでないが資本参加している会社のようなもので、そうした提携先を監視するために、親会社が置いている現地法人が任那日本府といったところだと思う。

また、百済から日本への文化的貢献は、中国との橋渡しだけだったのかといえば、そんなことはあり得ない。近代において、日本は中国や韓国に西洋の文物の橋渡し役をした。その場合に、そのまま右から左に流したのではなく、東洋に合うように改良したり、専門用語を漢字に直したりした。

百済経由で流れてきた文化も、中国から直輸入のものより日本人にとって消化しやすいものだったであろう。

また、日本の半島支配は、当然にそれなりの数の日本人の半島への移住や居住を伴ったし、逆に、それよりはるかに大きい数の百済人などの日本への流入をもたらした。平安時代の『新撰姓氏録』では、3割が帰化人でその主流は漢族だが、そのなかに秦氏に代表されるように百済経由の氏族が多くいるし、百済人と名乗るのもかなりの割合である。

こうした場合に、たとえば、文字を伝えた王仁博士のような百済から来た漢族をどう評価するかということもある。これは、たとえば、在日朝鮮人で日本国籍がない人がアメリカで活躍したときに、日本から来たと思われるか韓国・朝鮮人だとアメリカ人が思うかといったようなものである。

また、帰化人は重んじられ高い地位についたのは確かだが、やはり外様扱いで、トップクラスの地位につけたわけではないのも確かである。たとえば、百済王家の当主でも陸奥守あたりが限度であり、天皇の後宮に入っても皇后になれたわけではないから、日韓併合ののちに李王家が皇族扱いされたような厚遇はなかった。

そのあたり似ているのは、十字軍の時代のフランスやドイツとイタリアの関係であろう。政治的・軍事的にはフランスやドイツが有利で、イタリアの都市国家は従属的だが、ビザンツ帝国の文化を西ヨーロッパに伝える橋渡し役をし、また、イタリア人たちは各国の宮廷で活躍したし、その際に、イタリア的な味付けも加えた。こうした関係に似ていると思う。

まったく感覚的にいえば、私たち日本人と日本文化の成立にあたって、百済というものは、2割くらいの貢献があるのではないかといったところだろう。


誤解だらけの韓国史の真実 改訂新版

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