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(前回:二つの「社会学講座」と『社会分析』の「縁、運、根」)
個人研究はやらない原則
日本を含めた世界の人文社会系の学問では、特定個人の研究に生涯をかける研究者は珍しくない。哲学はもとより経済学でもマルキストやケインジアンが有名であり、社会学でもウェーバーリアンやデュルケミアンそしてパーソニアンは世代を越えて誕生し、特定個人研究で大きな業績が積み重ねられている。
しかし、体質のせいか私はそのような道を選択できず、できるだけ多くの先行する碩学の作品に学び、自らの視野を広げようと努めてきた。
例外は高田保馬と吉田正
とはいっても、50年の研究歴を振り返ると、かなり個人研究に特化した時期があることに気がつく。一つは、第11回目の連載(6月15日)で取り上げた高田保馬であり、社会学者・経済学者・歌人としての3方面の業績に魅力を感じたからである。
そしてもう一人は日本の高度成長期の歌謡界に新風を吹き込み、それまでの大作曲家である万城目正、古賀政男、古関裕而、服部良一などの大山脈を乗り越えた作風を確立した吉田正である。
社会学者・経済学者と歌謡曲の作曲家に等しく関心をもち、それぞれの専門書を刊行した理由がよく分からないと、苦情をのべる親しい友人・知人も数名いる。私はお二人の業績に引かれるままに、他の社会学者よりも少し深く知りたかったと答えてきた。
歌謡曲は初対面の高齢者との最良の触媒
本連載でくり返し紹介してきたように、私の研究テーマは「少子化する高齢社会」であり、仕事柄高齢者とのインタビュー調査も多い。その際、歌謡曲の話題は、初対面の高齢者とスムーズに対話を始める最良の触媒になる。
明治生まれの万城目正、古賀政男、古関裕而そして大正生まれの吉田正という日本の歌謡曲を代表する作曲家の作品は、高度成長期の日本を支えてこられたこれまでの高齢者の応援歌であり、当時を回想するカギになっているからである。
モオツアルトの根底にはtristesse(かなしさ)、吉田正の音楽にはjoie(喜び)
さて、スタンダアルは、モオツアルトの音楽の根底はtristesse(かなしさ)というものだ、といった(小林秀雄『モオツァルト』)。同じ文脈で、吉田正の音楽世界にはjoie(喜び)があふれているといってよい。
この理由の一つには吉田自身の性格がもちろんあげられるが、彼が生き抜いた戦争と平和の時代体験が、「喜び」を基調とする大衆音楽を作らせたことも指摘しておきたい。いうなれば、吉田メロディは日本の高度成長時代と戦前世代・戦後世代の交差点に登場し、「生きる喜び」(joie de vivre)を体現した日本人による「幸せな音楽」なのである。
歌謡曲への愛着
どういうものか、物心がついた頃から、ラジオからの歌謡曲を数回聞けば覚えて、それを小学校や中学校への通学の際に口ずさんでいた。
たまたま出身が古賀政男と同じ福岡県大川市であり、古賀の生家には自転車で15分くらいのところで育った。古賀の最後の内弟子である大川栄策は2歳上で、小学校中学校は私と同じである。
吉田メロディへの愛着
古賀メロディはもとよりそれ以外たとえば三橋美智也などの「ふるさと派歌謡曲」も好んでいたが、一番のお気に入りは吉田メロディ(男性版都会派歌謡、女性版都会派歌謡、股旅演歌、青春歌謡、リズム歌謡)であった。
もとより音楽理論の素養はゼロであったが、吉田作品を歌ってみると、歌詞、リズム、音階、メロディなどが、古賀メロディとは全く違っていることには気がついていた。これがいわば原体験である。
1953年から1971年までの吉田作品を取り上げる
本書で扱った「吉田メロディ」の代表作は、1953年(「街のサンドイッチマン」)から71年(「子連れ狼」)までの18年間に集中している。5種類のジャンルを書き分けた吉田が歌謡界で疾走していた時期になり、私は4歳から21歳であった。
この膨大な歌を覚えたのは、60年まではラジオだけであり、その後はテレビの歌番組を通してであった。レコードが買える家計ではなかったため、音源はマスメディアのみである。
ウェーバーの『音楽社会学』に出会う
その体質は大学に入学しても変わらず、授業の合間にギターを独習して、たまには下宿で弾きながら歌っていた。
しかし、さすがに1968年~69年の学園紛争(大学闘争)の渦中にいる学生として、徐々に音楽や文化から離れて政治と社会に目覚め、とくに社会学を専攻してからは音楽への関心を凍結することにして、大学院に進んだ。
ウェーバーの『音楽社会学』との出会い
修士課程のゼミで恩師から高田保馬の膨大な業績を紹介され、その生き方に関心をもち、紆余曲折を経て冒頭でのべた30年後の『高田保馬リカバリー』に結実した。
もう一つは博士課程の後半で、ウェーバーの『音楽社会学』(1911~1912=1967)に出会った。これはいくつもの領域で多数の作品を残し、いつの時代でも世界の社会学界の「東の正横綱」であるウェーバーの代表作を、翻訳でもいいから読んでおきたいという院生としての問題意識のなかで巡り合ったものである。もちろん他のウェーバー本以上に「音楽社会学」の内容はほとんど理解できなかったが、それでも本の奥から手招きされているような気がした。
『吉田正』の構想は20歳代後半
かろうじてその『音楽社会学』は、ヨーロッパ近代資本主義社会の特性を「合理性」に絞りこみ、それを対位法と和音和声法に局限してインドや中国までも包摂し歴史社会学的に明らかにしたことを理解した。
しかし、日本の社会学者にとってはこの本は孤高の存在であった。なぜなら、音楽の素養がなければ読めず、理解不能だからである。
クラシック音楽と歌謡曲の対比から
ただ曲がりなりにも読んでみたら、ヴェーバーが終生の課題とした「合理性」を近代ヨーロッパのクラシック音楽に見て取ったところからヒントが得られた。それにより、かねてから愛唱してきた高度成長期に大衆音楽世界を疾走した「吉田メロディ」に、新しい「都市化」時代の日本人の心性を重ね合わせたいという問題意識を膨らませるようになった。
ただしそれを具体化するには、音楽理論の初歩だけでも学ぶ必要を感じ、社会学研究の合間にそれを行ったがうまくいかず、ようやく作品化できたのは30年後であった。なぜかというと、 楽譜から譜面1と譜面2の読み取りと理解がなかなかできなかったからである。
表1 譜面1と譜面2
(出典)金子、2010:55.
結論を先取りしていえば、古関は全方位であったが、万城目や古賀の楽曲の大半が譜面1の「四七抜き長音階」か「四七抜き短音階」で作曲されていたのに対して、吉田メロディでは譜面2の「和声的短音階」か「旋律的短音階」が駆使されていた。
この相違が歌曲の個性を決定するが、個別の楽譜からそれを読み取る知識と技術を身につけるのに苦労したからである。還暦前にそれができるようになったことで、楽譜の分析が一気に進んだ。
近代西欧音楽を「合理性」で把握した
ウェーバーは、近代へと向かう西欧音楽の歴史的経緯を「合理性」によって集約し、より詳細には音の理性、和声、和音、秩序、「調的」感覚、整律、調性、協和性、音間隔の対称性などで分析したが、同時に「いわゆる”理論”なるものについていえば、それがほとんど何時でも音楽発展の事実の後を追いかけてきた、ということはまったく明らかである」(同上:203)ことも知っていた。
社会的事実が先行し、これを理論が分析し整理するのである。そこには社会学研究の基本的骨格が存在するので、対象を音楽や音楽環境としてもやり方は変わらない。
エリアスのモーツァルト研究も参考にした
他にも、たとえばエリアスのモーツァルト研究は、モーツァルトの生活史、その社会的時代的な背景、人間論、音楽論を総合的に含んでいた(Elias,1991=1991)。
「芸術家の着想は素材や社会に関わりをもっている」(同上:69)とするエリアスの社会学は、「現代の社会生活の理解しがたいものをよりよく理解し、説明できるようにする学問」(同上:170)であったので、『吉田正』にも使えると判断したのである。
なぜ音楽作品が残るのか
エリアスはモーツァルトを論じながら、「他の人々の作品は忘れられて影の世界に沈んでしまうのに、特定の人の作品が何世代にもわたる選別過程を経て、しだいに社会的に評価される芸術作品となっていくのは、どのような形態特質によるのであろうか」(同上:55)という問題を提出していた。「芸術作品の評価基準」は、その社会と時代の特性によって変化する部分とそれらを超越する部分が共存する。
当時私もエリアスと同じ問題意識を共有しており、研究対象をクラシック音楽ではなく、日本大衆音楽とりわけ歌謡曲に限定し、さらに日本社会全体で都市化が始まる高度成長前期の時代のヒット曲に局限しても、音楽作品がなぜ残るかは解明できるはずだと考えたのである。
個性が評価されて、作品が残る
伝記から分かるように吉田は、自分の前に聳え立つ大山脈として、表1に示した「四七抜き短音階」と「長音階」からなる古賀メロディに象徴される日本歌謡曲の音階を乗り越えるべく、苦労の末「都会派メロディ」を完成した。楽曲面からみると、吉田メロディとは「和声短音階(G♯)」と「旋律的短音階(F♯とG♯)」およびブルースのリズムに大きな特色をもつことが分かった。これは画期的なイノベーションであった。
たとえば古賀の「ゲイシャ・ワルツ」(1952年)と吉田の「再会」(1960年)はともにワルツではあるが、歌った感じも聞いた印象も極めて異質であると感じるであろう。
すなわち、「本来の『作曲家』とは、即ち個性をもった作品を提供しうる作曲家である」(ウェーバー、前掲書:181)。その個性の存在は大作曲家古賀にも古関にも吉田にも、そしてもちろん個性の重要性は社会学者にも当てはまる。
日本評伝選(ミネルヴァ書房)に取り上げられた
前回(7月20日)紹介した『社会分析』を準備していた2008年頃に、いつも私の本を担当しておられるミネルヴァ書房編集部の田引氏に、次作の構想として「作曲家吉田正」を話したことがある。これも一つの縁であろう。
先行する吉川弘文館の歴史シリーズよりもミネルヴァ書房の「日本評伝選」は、たとえば力道山までも含む多様なジャンルがあるのに、歌謡曲作曲家の評伝が皆無なのは残念だと思っていたからである。そうしたら、半月後に作曲家ならば誰を候補にしたらよいか、できればそのプランを出してほしいという連絡がきた。
4人を推薦
「日本評伝選」では生存者は除くというのが大原則なので、すぐに古賀政男、古関裕而、服部良一、吉田正の4名を推薦した。今であれば、遠藤実と船村徹も含めるであろう。
1週間後に、社長からよければ古賀と吉田を取りあえず候補としたいと連絡があり、両者を受けもてるかと尋ねられた。能力的にも時間的にもそれは無理なので、『吉田正』は引き受けて、古賀政男は別の音楽理論家を紹介した。執筆は引き受けていただけたが、15年経過しても『古賀政男』は刊行されていない。
詞とメロディを均等に論じるという大原則
さて、新書ではなく「評伝選」で刊行するのであるから、できるだけ本格物にしようと構想した。まずは吉田正喜代子夫人に挨拶に行き、ビクターの重役と吉田事務所長が同席されたなかで、「日本評伝選」の1冊として『吉田正』を刊行させていただきたいとお願いした。喜代子夫人は大変喜ばれて、できるだけ協力すると回答され、吉田事務所が保有する全資料の閲覧を認めていただき、すべての写真は自由に使って構わないというありがたいお話になった。
それから数回ご自宅(写真1)を訪問して、執筆の途中経過を報告したり、いくつかの質問に答えていただいた。
写真1 吉田正自宅の門と玄関
また、吉田が作曲と歌手の練習に使ったピアノなどにも触れることができた(写真2)。ピアノは現在日立市の吉田正音楽記念館に移されているが、自宅は喜代子夫人がお亡くなりになった後で、売りに出され、同じ敷地に数軒の住宅が建てられている。
写真2 吉田正愛用のピアノ
このピアノ伴奏で、鶴田浩二、三浦洸一、フランク永井、松尾和子、マヒナスターズ、橋幸夫、吉永小百合、三田明、久保浩、古都清乃などのスター歌手が、レコード吹き込み前の練習をしたかと思うと、感無量になった。
ピアノの上にはビクターのヒット賞としての犬のトロフィが置かれ、合計で204個あった。吉田の生涯作曲数は2400曲なので、実に8.5%のヒット率になる。普通は150曲出して1曲のヒット(0.67%)と言われる業界で、このヒット曲率は驚異的であった。
構想と執筆
さて、構想と執筆だが、まず冒頭には吉田の生涯を要約して、残りの各論ではこだわりの大原則を作った。それは、従来の作曲家の「評伝」の大半が、作曲された音楽面の分析は省略して、作詞家による詞の世界のみを取り上げてきたことに、真っ向から異論を唱えることであった。
歌詞の分析だけでは歌謡曲論になりえない
なぜなら、歌がヒットとしたのは、国民がその歌詞を朗読したからではなく、メロディを覚えるためにレコードやCDを購入し、歌ったからである。だから、作詞面だけを取り上げて歌謡曲を論じることは、作曲家に失礼であろうと考えたのである。
たとえば古賀メロディの集約ともいうべき「誰か故郷を想わざる」(1940年)を論じる場合、西條八十が書いた詞の部分のみを論じるような歌謡曲本は、当時も今もあふれているが、それでは「音楽社会学」にはなりえないという判断を最優先したのである。
執筆の5原則
具体的に取りかかってからは、これ以外に5つの執筆原則ができた。
- 誰も書いてない内容を自分で書き、第一読者になりたい。
- 時代を記録することの意義を歌謡曲に託する。
- 時代を独走するにはイノベーションが必要である。
- 目標とライバルの存在が大きな仕事を達成させる。
- 吉田メロディで、少年時代から青春時代を振り返る回想法の実践をする。
という骨格が見えてきて、6ヶ月ほどで脱稿し、刊行は2010年1月10日になった。
幸い6月10日に帝国ホテルで開かれた「吉田正13回忌」の集まりに間に合い、参会者400名に記念品として喜代子夫人が配布された。そしてありがたいことに、そこに私も招待され、中学生の頃からのファンであった吉永小百合、橋幸夫、五木ひろし、三田明さんたちに紹介していただけて、それぞれのツーショットの記念写真が得られ、それらは宝物になっている。
楽譜の分析を行う
「音楽社会学」の本格物を書くには、楽譜の分析いかんでその価値が決まることは承知していたので、社会学の研究の合間に『音楽辞典』で初歩的な音楽理論を学び、楽譜の見方を練習した。結局この学習に時間がかかりすぎて、還暦での仕事になったのである。
古賀の「誰か故郷を想わざる」でいえば、四分の二拍子のイ短調であり、リズムは歩行をイメージできるものであった。その音域は広く、歌唱のパートだけでも13度あり、伴奏をいれれば実に15度になり、プロの歌手にプロの作曲家が全力で提供した作品である。そのようなことが楽譜から分かればいいという目的には達したので、このレベルで十分だと判断した。
まずは古賀メロディに象徴される四七抜き歌謡曲(ドレミソラ)で作曲された「ふるさと派メロディのリズムと音域」の作品を選び、そのリズムと音域をまとめた(表2)。
表2 「ふるさと派メロディ」のリズムと音域
(出典)金子、2010:60.
吉田「都会派メロディのリズムと音域」
同じ手法で吉田「都会派メロディのリズムと音域」を整理した(表3)。一見して、リズムが異なることが分かるであろう。確かに作品を耳で聞いても違いは感知できるが、音符を使い音楽理論に基づきまとめれば「音楽社会学」になるという思いが強かった。
比較してみると、吉田の都会派歌謡のメロディは、
というブルースの基本リズムをもち、全曲が4分の4(C)拍子であり、四分音符が連続するものであった。
表3 吉田「都会派メロディ」のリズムと音域
(出典)金子、2010:60.
歌詞と楽譜の分析を吉田メロディでも行った
吉田の生涯作品2400曲がもつ幅広さは、「男性版都会派愛の歌」、「女性版都会派愛の歌」、「股旅ものと時代もの」、「青春歌謡」、「青春リズム歌謡」という5つの支流をもつところにある。
いずれもフランク永井や松尾和子それに橋幸夫と三田明など吉田学校の歌手が歌い、ヒット曲も数多い。吉田正の評伝だから、これらの音楽面の特徴をいくつかにまとめた(表4)。
表4 都会派メロディ楽譜にみる音符の記号論
(出典)金子、2010:64.
作曲家吉田正の業績評価
(1)人が独力で達成した偉大な業績は、その分野の権威、すなわち立ちふさがる大山脈に挑む地点から始まる。その意味で吉田メロディは、四七抜き短音階と長音階そして歩行のリズムを柱とした古賀メロディの存在抜きには成立しない。これを乗り越える作曲上の工夫はもちろんリズムも音域も吉田は革新して、独自の個性を手に入れ、その作品は今日まで輝いている。
(2)着実な仕事の遂行には息のあったパートナーが不可欠である。古賀と作詞家西條八十とが不可分なように、吉田の場合は、作詞家佐伯孝夫と宮川哲夫両者による時代を表現した詞の提供が不可欠だった。とりわけ佐伯孝夫が書き分けたジャンルの幅広さと表現の軽妙洒脱さとは、吉田メロディの可能性を広げて、数多くの名曲に結びついた。
佐伯孝夫の世界
早稲田大学仏文学教授西條八十の弟子であった作詞家佐伯孝夫は、文字通り追随を許さないプロの詩人であった。その特徴は吉田とのコンビの作品だけに限定しても、以下の10点が指摘できる。
- 高度成長時代を描いた吉田都会派メロディの源泉(「有楽町で逢いましょう」)
- 詩人の言葉の豊富さ(「南海の美少年」)
- カタカナ言葉と漢字で時代の都会風俗を的確に描写(「東京ナイトクラブ」)
- 軽妙洒脱の表現形式(「弁天小僧)
- 歌舞伎、歴史的事実に題材(「お嬢吉三)
- 時代ものと股旅ものの模範(「潮来笠」)
- 色が浮かんでくる作品世界(「青いセーター」「白い制服」)
- 対比、連鎖の妙(「東京午前三時」)
- 七五調で日本語リズムを完成(「哀愁の街に霧が降る)
- 女心と男心の機微を書き分けた(「再会」)
作詞家と作曲家のコンビ
これほど豊かな世界を歌で表現した作詞家は、佐伯本人とその恩師である西條八十、阿久悠、なかにし礼だけであろう。そして古賀政男と西條八十、佐伯孝夫と吉田正のゴールデンコンビは日本歌謡曲の世界では別格であった。また阿久と三木たかし(「津軽海峡・冬景色」、「北の蛍」)、阿久と大野克夫(「勝手にしやがれ」、「love抱きしめたい」)などの佳品があげられる。なかにしでは浜圭介(「石狩挽歌」、「舟歌」)という名品がある。
同じレベルのライバルの刺激が有効
(3)仕事の質を高い水準で維持するには、同じレベルのライバルの刺激が有効である。代表的には「高校三年生」に代表される遠藤実の作品群は、「美しい十代」をはじめとする吉田青春歌謡作品の質と量を極限まで押し上げた。団塊世代の歌の宝物の大半は二人の作曲による。
(4)仕事の成果を正確に発表するには、それにふさわしい人材が必要である。吉田は既成の歌手を避けて、新人をたくさん発掘して、短期間で大スターに育てあげた。それぞれの個性に合った作品を提供したからであるが、もちろん至難の業である。
(5)時代を疾走する勢いには限りがある。一人ないしは一分野での独走はせいぜい3年しかありえない。しかし吉田メロディは5つの分野に広がりをもっていたので、全体としては15年もの長期にわたって、高度成長期の歌謡曲世界を席巻した。私もコミュニティ、地方創生、少子化、高齢化、社会資本主義という5つの分野を手掛けてはみたものの、吉田の世界には程遠かった。
親密な協力者の存在
(6)大きな仕事には親密な協力者が存在する。吉田メロディの完成に喜代子夫人の協力は不可欠であった。書きなぐった楽譜の清書、ひっきりなしの来客への応対、吉田への面会希望者の許諾判断、健康管理、自宅でレッスンする歌手の世話、レコード会社との交渉など、夫人の功績は多岐にわたる。
このような時代を彩った歌謡曲の背景にまで目配りすると、音楽文化創造の奥深さがそれまで以上に楽しめる。正統派の社会学の研究ではないが、30年抱えてきた問題意識を『吉田正』で検証できたことはおおいなる喜びとなった。
最終的には日本社会論の一翼を担う
学問論としても音楽社会学的研究の大きな課題が最終的には日本社会論にあるならば、「歌謡曲の中には、今の日本人の音楽に関する欲求、反応、創造性などが、最も端的に現われている」(小泉、1980:83)のだから、都市化という社会的文脈のなかにおける歌謡曲の研究が、それにより適合するはずである。
マスとしての特定の時代を生きた日本人の傾向が把握できる記録として歌謡曲があり、それを音楽社会学の方法で研究することによって、いくぶんかは時代特性と社会構造特性を解明できたと考えている。
本書の結論
そして、吉田メロディを軸とした音楽社会学としての結論としては、「作曲家による時代を先取りする感性こそが♯の使用を的確に決定し、その作品が時代を表現する力量をもち、広く国民への浸透を勝ち取ることができる」(金子、2010:83)とした。
全国紙による「書評」
さて、『吉田正 日本評伝選』は、読者にどのように受け止められたか。ここでは『日本経済新聞』(2010年1月24日)と『読売新聞』(2010年4月18日)の「書評」を転載しておこう。
(出典)『日本経済新聞』(2010年1月24日)
(出典)『読売新聞』(2010年4月18日)
いずれも私の「音階とリズム」と「歌詞や歌唱」とを結びつけた表現について、その趣旨を正しく理解して、的確に評価していただいている。これは著者冥利につきる。
とりわけ『読売新聞』では評論家片山杜秀氏の「書評」であり、「作曲家の評伝と戦後社会史を兼ねた傑作。日本の音楽社会学の夜明けだ」という過分の評価にはうれしくもあり、恥ずかしくもあった。
たくさんの出会いと縁に感謝
30年以上続いたウェーバー『音楽社会学』へのこだわりが芽生えた時期に出会った見田、小泉、渡久地の3冊が、『吉田正』という音楽社会学の灯火を守ってくれた。
同時に、素人の生涯学習の成果なので発表の機会には恵まれないだろうと諦めていたときに、評伝選シリーズに加えていただいたミネルヴァ書房、秘蔵の写真、資料、手紙、原稿などを惜しみなく与えていただいた吉田喜代子氏、吉田事務所、吉田正音楽記念館、町田市民文学館の暖かいご支援に心から感謝する次第である。
【参照文献】
- 藍川由美,2002,『「演歌」のすすめ』文藝春秋.
- エリアス、N、1991,青木隆嘉訳『モーツァルト ある天才の社会学』法政大学出版局、1991.
- 金子勇編,2003,『高田保馬リカバリー』ミネルヴァ書房.
- 金子勇,2010,『吉田正 日本評伝選』ミネルヴァ書房.(日本音楽著作権協会(出)許諾第0915361~901号)
- 小泉文夫,1984,『歌謡曲の構造』冬樹社.
- 小林秀雄,1961,『モオツァルト 無常という事』新潮社.
- 見田宗介,1978,『近代日本の心情の歴史』講談社.
- 渡久地政信,1991,『潮騒に燃えて』サザンプレス社.
- Weber,M.,1911~1912,Die rationalen und soziologischen Grundlagen der Musik.(=1967、安藤英治・池宮英才・角倉一朗訳『音楽社会学』創文社).
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・『高田保馬リカバリー』の「縁、運、根」
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・『社会調査から見た少子高齢社会』の「縁、運、根」
・『少子化する高齢社会』の「縁、運、根」
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