独ソ戦とイラン・イラク戦争と台湾有事、そして「Epic Fury」

Hacer Keles/iStock

ウクライナ然り、ガザ然り、台湾贔屓の筆者は、世界中の紛争をどうしても台湾海峡両岸の動静と結びつけてしまう。今般の「Operation Epic Fury」も、習近平が米国のミサイル欠乏や軍事アセットの分散に付け込んで台湾侵攻に走り、台湾有事が出来する事態になりはしまいかとの懸念が先ず頭をかすめる。

相手の弱みに付け込む奇襲は卑劣だが、歴史上繰り返されてきた戦争の定石、例外は真珠湾攻撃ぐらいのものか。なぜならそれを立案した山本五十六自身、米国の国力を熟知するが故に「半年か1年の間は随分暴れてご覧に入れる」とした作戦だからだ。裏を返せば「それ以上は続けられない」ということ。

真珠湾に先立つこと半年、スターリンによる年来の軍幹部粛清を知悉するヒトラーが41年6月22日、赤軍弱体化の隙を突く「バルバロッサ作戦」に打って出た。独ソ不可侵条約を破棄してのソ連奇襲である。そのㇲターリンの大粛清を『ノモンハン事件の真相と戦果』(小田洋太郎・田端元共著/有朋書院)はこう記している。

スターリンは国内での地位安定を目指して昭和12年に、トハチェフスキー元帥を含む元帥5人中3人、軍司令官16人中14人、海軍提督8人全員、軍団長67人中60人、師団長199人中136人、旅団長397人中221人など、将校3500人が銃殺した。ジューコフ将軍もリストに上がっていた。

習近平はこの2月10日、人民解放軍(PLA)幹部の粛清について口を開き、この1年を「異例で並外れた」期間とし、解任した張又侠中央軍委員会(CMC)副主席が「重大な規律および法律違反」を犯したと述べた。過去3年間で最高位の軍人14人が解任又は捜査対象となり、7人だったCMCは2名になった(2月13日の『BBC』)。

蒋介石が生きていたら「大陸反攻」の挙に出たかも知れぬ事態だ。もし「Epic Fury」発動に臨むトランプ大統領の頭の片隅に、今のPLAの状況なら台湾侵攻の隙にはならない、との予測があったとしたらまさに慧眼だ。が、このタイミングは「ハメネイが油断したその時」だったからに他なるまい。

巷間、「日本とイランの関係は良好」との言説がある。が、偶さか最近『バンダルの塔』(高杉良/講談社文庫、84年初版)を読んだ筆者には「どこが?」との思いが湧く。高杉は、登場人物こそ仮名だが、6千億円もの損失を出した三井Gや東ソーを実名で出して、イランとのJV「IJPC」の凡そを活写する。

同書は、その年の1月16日にシャー・パーレビがエジプトに脱出し、そのシャーに追放されたアヤトラ・ホメイニが2週間後の2月1日、亡命先パリから15年ぶりにイランの土地を踏んだ79年3月19日のIJPC関係者「総引きあげ」がエピローグだ。が、このイラン革命で中断した工事は、翌80年6月に一旦再開された。

息の根を止めたのは、80年9月22日未明のイラク軍による奇襲だった。勃発した「イラン・イラク戦争」の当事者は、片やイスラム教シーア派のペルシャ国家、此方イラクはスンニ派のアラブ国家、即ち民族と宗教の両方が絡む。しかもイラクを率いるサダム・フセインは前年7月に大統領に就任した42歳の気鋭だ。

フセインは革命の混乱に乗じた。ホメイニがイランに、多くが君主制のアラブとは異質のイスラム共和制「イラン・イスラム共和国」を築く前に叩く目論見だ。が、戦争は88年8月の停戦まで8年間も続いた。89年6月にホメイニが死去し、翌90年9月に両国はようやく10年ぶりに国交回復した。

が、IJPCは回復しなかった。日本側は81年7月、戦争下の工事継続を非現実的として契約の再検討を申し入れたが、イランは工事継続を強く要望する。83年7月に折れた日本側は補完協定を結び、工事は再開する。が、イラクが「工事を行えば攻撃する」と警告、84年9月には被弾する事態となった。

長期化する戦争の中、両者の交渉が続いた。が、イラン国会が85年4月に「補完協定」を否決したこともあり、ついに89年10月、85%完成していた事業を清算する合意に至ったのである。73年4月のJV設立から16年が経っていた(参考:『イランジャパン石油化学の歴史』)。

さて、「J6」以来トランプと一線を画していた「トランプ1.0」のVPマイク・ペンスが3月6日、「Epic Furyは土曜の朝に始められた戦争ではなく、米国・イスラエル・この地域の同盟国とイランとの、47年間の戦争を終わらせるための戦争だ」と述べた。トランプやルビオと軌を一にする発言である。

47年前に始まった戦争とは、イラン革命9ヵ月後の79年11月4日に起きた「米大使館人質事件」だ。革命後に暫定政府の首相となり、IJPC工事再開にも尽力した学者で民主化運動家の穏健派バザルガンは、大使館の外交官を人質にした学生を非難したが、ホメイニが「アメリカに死を」と学生を支持し、首相を辞任した。

学生らは大使館がシュレッダーした書類を復元して公表して米国のイラン介入を暴露、その10月22日の米国入国で占拠事件の発端となったパーレビと大使館員53人との交換を迫った。米国は救出を試みるが失敗、死者こそ出なかったが81年1月の人質解放まで444日を要した。この間の80年4月、米国はイランと断交した。

83年4月にはイランを後ろ盾にレバノンを拠点とするテロ組織ヒズボラがレバノンの米大使館を爆破し、米人職員17名を含む60余名が死亡した(イスラム聖戦機構が犯行を声明も、米国司法はヒズボラの犯行と認定)。同年10月にもベイルートの米海兵隊兵舎が自爆テロに遭い、241名の米兵の命が奪われるに及び、レーガン政権は翌84年1月、イランをテロ支援国家に指定し、今日に至っている。

なお、3月3日付で『The Hill』が「イランによる米国攻撃の長い歴史:タイムライン」と題して、イランとその支援テロ組織(ヒズボラ・ハマスなど)が昨年までに米国に対して行ってきた、上記を含む40件余りのテロ事件を年表にして報じている。

筆者には往時のバザルガン首相と、湾岸諸国への攻撃を謝罪したペゼシュキアン大統領がダブって見える。79年暮れにホメイニの下で成った憲法に基づき、イランの専門家会議は9日、ハメネイの息子モジタバ・ハメネイを最高指導者に選んだ。が、謝罪に反発し、攻撃を続行させた強硬派の主導者がモジダバであるなら、この選択がイラン国民を救い損なう気がする。

なぜなら、イランは継戦能力のかなりを失っているとみられるから、反撃はシャヘドの射程範囲に限られよう。となればその標的は、ペゼシュキアンが謝罪した湾岸諸国とトルコなどの一部NATO加盟国、そしてイスラエルだ。つまり米国は、イランの爆撃とイスラエル・湾岸諸国への防衛設備供与を続ければ良く、遠からずイランは刀折れ矢尽きる。

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