前回のこども版記事で、

- 愛子さまが天皇になるには皇室典範を変えなければならない
- 今のままでは将来、天皇になれる「男系男子」がいなくなりかねない
話を解説しました。
ところが今の国会では、愛子さまをはじめとした女性・女系の皇族が天皇になれる案ではなく、「旧宮家から養子をとる」というまったく別の案が進められています。

しかしこれは多くの専門家から「無理がある」と批判の的になっているのです。
これはいったいどんなものなのでしょうか。
まず「宮家」とは何かというと、これは三宅さんのことではなく、天皇ご一家の親戚にあたる皇族ご一家のことです。
「〜宮」という宮号(これは特別な称号で、苗字とは違います)を天皇からもらった家のことで、次の天皇に近い秋篠宮文仁さまや悠仁さまも、秋篠宮家という宮家の一員です。

秋篠宮家の皆様 2025年 宮内庁HPより
戦争に負けたあとの1947年、「これからは皇族ではなく、ふつうの国民になってください」と言われて皇室を離れた宮家が、11ありました。
これが「旧宮家」です。
その中で、今も男系男子(お父さん方をたどると天皇につながる男子)が続いている家が、4つあります。
そのうちの1つ「竹田家」の人で、テレビやYouTubeによく出てくるのが竹田恒泰さんです。

竹田恒泰さん 産経新聞より
ただし、旧宮家が皇室を離れてから約80年。
今ではその子孫の多くが、私たちと同じようにふつうに暮らしていて、恒泰さんも含めて皇族ではありません。
しかも、今の天皇家と共通のご先祖までさかのぼると、なんと約600年前の室町時代にもなります。
「男系」でつながってはいても、血のつながりとしては超・遠い親戚なのです。

旧11宮家の系統 毎日新聞より
いま皇室で問題になっているのは、秋篠宮さまの次の世代で男系男子が悠仁さまお一人だけ、ということでしたね。
これを解決するために、「遠い親戚でもいいから、とにかく男系男子の人数を増やそう」と考えた議員や有識者たちが思いついたのが、「旧宮家の男系男子を、皇族の家が養子として迎えればいい」という、いま進められている案です。
しかし、ここで不思議な点があります。
旧宮家の人を「もう一度皇族に戻します」とそのまま決めればよさそうなのに、わざわざ「今ある皇族の家が養子として迎える」という、回りくどい形をとっているのです。
実は、これにはわけがあります。
「あなたの家は特別な家系だから皇族にします」と国が直接決めると、日本国憲法のある決まりに反してしまうのです。
もちろん政治家は、憲法に反する法律を作ってはいけません。
そこで、
という抜け道として考えられたのが、いまの案です。
ですが、はたしてこれで本当に問題は消えるのでしょうか。
「ある決まり」とは、憲法第14条の「門地による差別の禁止」です。
そこには「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と定められています。
「門地」とは生まれた家柄のこと。
つまり「どんな家に生まれたか」で人を特別あつかいしたり、逆に差別したりしてはいけない、という大切なルールです。
このルールは、旧宮家の男子たちにも当てはまります。
だからその人たちを
- 特別な家柄だから
- そこの男子だから
という理由で皇族にするのは重大なルール違反だ、と多くの専門家が指摘しているのです。

これを進める人たちは、「でも相手は皇族なんだから、そんなの関係ねぇ!」などと言っています。
実は、これ自体は正しいのです。
天皇や皇族が特別な存在であることは、憲法そのものが認めているからです。
しかし、それは生まれながらの皇族の話で、80年ふつうの国民として生きてきて、これから養子に迎えられる人たちは、まだ皇族ではありません。
当たり前ですね。
しかし「今はまだ国民でしょう」と返すと、今度は「皇族にした後の話だ」と言い直して逃げます。
「でもそんなの関係ねぇ」というおかしな主張と、「皇族にした後はそうだ」という正しい(でも、答えにはなっていない)主張を、都合よく行き来してごまかしているのです。

ChatGPTにて出力。登場するおじさんたちはフィクションです。実在の人物とは関係ありません。
少し難しい話ですが、こういうヘリクツを「モット・アンド・ベイリーの誤謬」といいます。
みなさんはマネしてはいけません。
さらに、この案には大きな穴があります。
6月にまとまった「立法府の総意」では、「養子となって皇族となられた方は皇位継承資格を持たない」とはっきり決められました。
つまり養子を迎えても、天皇になれる人はその場では一人も増えないのです。
では誰が天皇になるのかというと、その養子に生まれる「子ども」や「孫」の世代です。
ところが、その子に継承の権利を与えるかどうかは、まだ何も決まっていません。
いちばん大事なところが、空っぽのままなのです。
与えられたとしても、その子が「男子」でなければ継承はできません。
側室もなく少子化も進む今、特定の家に何代も男子が生まれ続けるというギャンブルは、悠仁さまお一人の問題を、形を変えてくり返すだけです。
これを進める人たちは「継承者だけでなく、公務をする皇族も足りないから」などとも言っていますが、それならすでにいる愛子さまたち女性皇族に、結婚後も残ってもらうだけで十分でしょう。
「男系男子」にこだわることが、この案の本当の目的をよく表しています。
ではなぜ、こんなに穴だらけの案がゴリ押しされるのでしょうか。
それはこの案は20年ほど前、「愛子さまを天皇に」という流れを止めるために考え出されたものだからです。
(当時それを進めた政治家の多くは、今はもう政界にいません)
実はこの養子案を作るには、「門地による差別」よりも大きなハードルとして、皇室典範第9条があります。
そこには「天皇及び皇族は、養子をすることができない」とはっきり書かれているのです。
これはどんなヘリクツでもごまかせないので、養子案を実現するには典範を変えなければいけません。
しかし冷静に考えれば、同じく典範を変えるのなら、ヨーロッパ各国のように女性・女系を認めるほうが効果も高く、憲法に反することもありません。
それでも養子案が推されるのは、「男系男子でなければならない!」と男尊女卑にこだわる議員や有識者たちが、「旧宮家で男系男子は確保できる」という既成事実を先に作ってしまいたいからです。
国民の多くが直系である愛子さまの即位を望むのに、その声とは別のところで、法律の抜け穴を探してまで「男子だから」というだけで超・遠い親戚をさがす――。
この案がどれだけ無理のある話か、読んできたみなさんには見えてきたはずです。
今上陛下は「国民の皆さんの理解が得られるものとなることを望んでおります」と述べられました。
法案そのものはいま作られていますが、みなさんはどう思われますか。








コメント
まあ、伝統だし。
歌舞伎役者は男しかなれなくて、松たか子は幸四郎との共演はラマンチャだけ!と同じ・・・とか言うとたぶん怒られるんだろな。
> まあ、伝統だし
「伝統」が応じている命題が不明瞭である。
前編こども版記事も含めた本文テキスト内に、私が「伝統」について言及した箇所は存在せず、何が・いつから・どのような意味での「伝統」なのかの定義がない。
※リンク先記事群のタイトルにはあるが、それは私の述べたことではない。
仮に何かの「伝統」があるとしても、それが現行法の問題点(継承者の枯渇・養子案の憲法上の疑義)を解消しないことは自明である。
記事群にて提示した人口学的・法的な論点に対する、論理的応答たり得ない。
> 歌舞伎役者は男しかなれなくて、松たか子は幸四郎との共演はラマンチャだけ!と同じ・・・とか言うとたぶん怒られるんだろな。
【類比の虚偽 false analogy】にあたる。
類比が成立するためには、比較される二事例が本質的に同種でなければならないが、歌舞伎と皇位継承は少なくとも以下の点で異なる。
・制度の性格:歌舞伎は私的な芸術的伝統であり、誰がそれに参加するかは当該集団の自律的判断の問題である。皇位継承は日本国憲法2条・皇室典範という公法の問題であり、国民の総意のもとに国会が定めるとされている。
・当事者の選択:歌舞伎俳優になることは任意の選択である。皇族の地位には選択の余地がない。
・論争の争点:記事は「歌舞伎俳優に女性も認めるべきだ」とは一言も言っていない。比較の前提が記事の主張と対応していない。
加えて、記事の中心的論点(養子案の制度的欠陥・憲法上の問題)は当該類比とは原理的に無関係であり、類比そのものが【論点のすり替え Ignoratio elenchi】として機能している。
> たぶん怒られるんだろな
先制的な【毒の混入論法 poisoning the well】と呼ばれる【対人論証 ad hominem】の構造をとっている。
該当箇所は、自分の主張への批判を「怒り」という感情的反応として事前に枠組み直すことで、論理的批判が来る前に批判を感情化して格下げしている。
実際に記事が提示しているのは感情的な訴えではなく、法的・人口学的・制度論的な論点であるから、「怒られるんだろな」というフレーミングは記事の性格と噛み合っていない。
該当手法は、実質的な論点への応答を免れるために「批判者の感情的性格」を先に設定するという論法であり、議論の質を下げる効果を持つ。
「伝統」や「歌舞伎」という論拠は、命題として一定の重みを持ちうることは確かだが、記事の論点に応じた反論になっているかという話は別であり、前者を認めても後者は成立しない。
よって、論理的な応答としては機能していない。
横から失礼します。読者の一人としてちょっとだけ言わせてください。
話が長いので、主張の結論だけ先に書きます。
「どこまでは比べられて、どこからは比べられないのか」を整理せずに、単に切り捨てるのは詭弁
それでは本文です。
金尾さんの解説、とても分かりやすかったです。そのうえで、佐藤さんの「歌舞伎」のたとえに対する「類比の虚偽(false analogy)」というご指摘について書かせてください。
失礼があったらすみません。
## 「類比」は、どこまで似ていれば成立するの?
金尾さんは、「類比が成り立つには、比べる二つが本質的に同じ種類でなければいけない」とおっしゃって、歌舞伎と皇位継承が違う点を三つ挙げています。
たしかに、歌舞伎と皇位継承は違うものです。これは間違いありません。でも、ここで一度立ち止まって考えてみたいのです。
そもそも、世の中にある「二つのちがうもの」を並べたとき、まったく同じということはありえません。どんなものでも、よくよく探せば、ちがう点は必ず見つかります。リンゴとミカンだって「色がちがう」「皮のむき方がちがう」と、いくらでもちがいを挙げられますよね。
ということは、「ちがう点があるよね」と指摘するだけでは、類比を否定したことにはならないのではないか、と思うのです。
## 大事なのは「どこを比べているか」
類比が使えるのは、「ちがう点がない」ときではありません。
2つが今まさに比べようとしていることに関わってくるときに使えるのです。
では、佐藤さんが歌舞伎を持ち出したとき、比べようとしていたことは何だったのでしょうか。
それはおそらく、「**生まれ持った性別によって、なれる人がしぼられている世界が、その世界の中のルールとしては受け入れられている**」という一点だと思います。
歌舞伎も「男の人だけ」という決まりでずっと続いてきた。
皇位継承も「男系男子」という決まりが議論になっている。
この「性別でしぼる、というルールをどう考えるか」という点で、二つを並べてみた、ということです。
## 三つの「ちがい」は、これを否定できるか?
ここで、金尾さんが挙げた三つのちがいを見てみます。
一つ目「歌舞伎は私的なもの、皇位継承は法律(公的)のもの」。
二つ目「歌舞伎は自分でなろうと選べる、皇族は選べない」。
この二つは、たしかに「ちがい」です。
でも、佐藤さんが言いたかった「性別でしぼるルールをどう見るか」という点で2つを見るのは、本当に駄目なのでしょうか。
「公的か私的か」「選べるか選べないか」は、「性別でしぼるルールをどう見るか」とは別の話のようにも見えます。
このようなちがいを持ち出して「種類がちがうからダメ」と言うのだとしたら、それは詭弁なのではないでしょうか。
三つ目「記事は『歌舞伎に女性を認めろ』なんて言っていない」。
これも同様にとらえ方がおかしいですね。
## 「ちがうからダメ」では、すべての類比が消えてしまう
もし「本質的に同じ種類でなければダメ」というルールを、きびしく当てはめてしまうと、どうなるでしょうか。
さっきも言ったように、二つのものには必ずちがいがあります。だから、その気になれば、世の中のすべての類比を「ここがちがうからダメ」と却下できてしまうのです。これでは、類比という考え方そのものが使えなくなってしまいます。
ですから、類比を「虚偽だ」と否定したいなら、ただ「ちがう点があるよ」と並べるだけでは足りないと思います。
【異なる部分】によって、その会話が無意味になるという証明をしてはじめて反論として完成するのではないでしょうか。
この話は広い視野でみると「生まれ持った性別によって、なれる人がしぼられている世界が、その世界の中のルールとしては受け入れられている伝統」vs「文明の近代的な考え方(男女平等)」であり、歌舞伎を持ち出した話が無価値であるとは思えません。
## さいごに
念のためですが、私は「歌舞伎と皇位継承は同じだ」と言いたいわけではありません。制度の重みも、社会への影響も、ぜんぜんちがいます。
ただ、「ちがう点があるから、類比は虚偽だ」と切ってしまうのは、それは詭弁です。
「どこまでは比べられて、どこからは比べられないのか」を整理せずに、単に切り捨てるのは詭弁です。
その認識のもとに話をしたが、議論はもっと前に進むのではないか。
長々と失礼しました。お二人の議論、これからも楽しみにしています。
こども版を読んでくださっているみなさんの勉強のために、記事で紹介した「モット・アンド・ベイリーの誤謬」のような「論理的誤謬(ろんりてきごびゅう)」を、このコメントから一緒に確認してみたいと思います。
なお「論理的誤謬」については、藤原かずえさんによるアゴラの「藤原かずえのメディア・リテラシー」で詳しく載っていますので、興味があれば読んでみましょう。
https://literacy.agora-web.jp
ちなみに、この論理的誤謬を知っていてわざと使うヘリクツを「詭弁(きべん)」、詭弁を使って周りを騙そうとする人を「マニピュレーター」といいます。
みなさんはマニピュレーターになってはいけません。
このコメントについてには、本当に正しいことが「少しだけ」書いてあります。
この「踏み台」が一番のポイントです。
正しいことが少しでも書いてあると「この人はちゃんとした人だ」と思いやすく、その後に続く問題点も正しいように見えてしまうのです。
これは最後にまとめて説明します。
問題①「答えるべき話に答えていない」――論点のすり替え
前回のコメントに対する「歌舞伎のたとえ」への指摘は2つありました。
・ひとつめ:歌舞伎と皇位継承は、うまく比べられない(類比の虚偽)
・ふたつめ:そもそも歌舞伎のたとえは、記事の中心(継承者が足りない問題・養子案の憲法上の問題)に何も答えていない
このコメントはひとつめの「【類比の虚偽 false analogy】かどうか」だけを丁寧に論じていますが、ふたつめには一言も触れていません。
それはふたつめに答えようとすると、「確かに歌舞伎のたとえは記事の問題に答えていませんでした」と認めるしかないからです。
これを【論点のすり替え Ignoratio elenchi】といいます。
「答えるのが難しいことには答えず、答えやすい別の話をする」という誤謬です。
テストで「問2に答えなさい」と言われて、問1を必死に答えても正解にならないのと同じですね。
藤原かずえさんによれば、アリストテレスはすべての論理的誤謬は「論点のすり替え」の形式をとると主張しているそうです。
問題②「相手には厳しいルールを求め、自分ではそのルールを守らない」――ダブルスタンダード/二重基準
> 類比が使えるのは、「ちがう点がない」ときではありません。
> 2つが今まさに比べようとしていることに関わってくるときに使えるのです。
> 「どこまでは比べられて、どこからは比べられないのか」を整理せずに、単に切り捨てるのは詭弁です。
ここが最初に挙げた、本当に正しいことが「少しだけ」書いてあるポイントです。
「ちがいを言うだけではだめで、そのちがいが比べている点に関係することを示さなければいけない」というルールは、論理的に正しいルールです。
しかしこのコメントでは、自分で立てたこのルールを、自分自身では守れていないのです。
> でも、佐藤さんが言いたかった「性別でしぼるルールをどう見るか」という点で2つを見るのは、本当に駄目なのでしょうか。
> 「公的か私的か」「選べるか選べないか」は、「性別でしぼるルールをどう見るか」とは別の話のようにも見えます。
「ようにも見えます」は感想であって、「なぜ関係ないのか」の説明ではありません。
「なぜ関係あるのかを示しなさい」と要求しながら、自分が「関係ない」と言うときは感想で済ませているのです。
これを【ダブルスタンダード/二重基準 double standard】といいます。
「自分に甘く、他人に厳しい」と言えば、みなさんもどういうものかわかるでしょう。
問題③「書いていないことを批判して、さらに大げさな結論を出す」――ストローマン論証/藁人形論証・滑りやすい坂論証
> もし「本質的に同じ種類でなければダメ」というルールを、きびしく当てはめてしまうと、どうなるでしょうか。
> さっきも言ったように、二つのものには必ずちがいがあります。だから、その気になれば、世の中のすべての類比を「ここがちがうからダメ」と却下できてしまうのです。
元のコメントをよくみてみると、少しむずかしい表現ですが「類比が成立するためには、比較される二事例が本質的に同種でなければならないが、歌舞伎と皇位継承は少なくとも以下の点で異なる」と書いてありますね。
これをかみくだいて言うと「比べている点に関係するちがいがある場合は、類比が成り立たない」という範囲があって、「あらゆるちがいで類比は無効になる」とはまったく違います。
存在しない主張を作り上げて、それを批判する。
これを【ストローマン論証/藁人形論証 Strawman fallacy】といいます。
本物の人を倒すのは大変だから、藁(わら)で作った人形を立てて、それを倒して「勝った」と言うイメージです。
親子でたとえると、お母さんが子どもに「ゲームは宿題が終わった後にしようね」と言われた時、子どもが「ゲームを一生禁止しろと言っている!それはおかしい!」と言うようなものです。
さらに、そのあとに続く「だからすべての類比が却下できてしまう」は別の問題です。
「比べている点に関係する」範囲のちがいがある場合に、類比が成り立たなくなるのですから、逆に「関係しない」範囲のちがいがあるだけなら類比は成り立ちます。
なのにこのコメントでは「すべての類比が却下できる」などという大げさな結末を出して、「こうなる、ああなる、最終的にはとんでもないことになる」と、どんどん話を大きくしているのです。
これを【滑りやすい坂論証 Slippery slope】といいます。
坂の上で一歩踏み出したら、そのまま坂を転がり落ちてしまうイメージからこの名前がつきました。
「ある一歩を認めると、次々と悪いことが起きて、とんでもない結末になる」と主張する論法ですが、その「次々と」の部分が証明されていないときにこうなりがちです。
学校でたとえると、先生が「授業中にスマホを見てはいけない」というルールを作っても、「このルールをきびしく当てはめると、次は教科書もダメ、メモ帳もダメ、最終的に学校から道具が全部なくなってしまう!」とはならないのと同じです。
ルールには「授業中のスマホ」という範囲があって、そこから勝手に広がるわけではないからです。
もう1つ説明すると、この2つの誤謬はセットで使われていることが多く、今回もその例になっています。
まず【藁人形論証】でルールを「あらゆるちがいで無効」という弱い形にすり替える。
そのすり替えたルールを使って【滑りやすい坂論証】で「だからすべての類比が却下できてしまう」とおおげさな結末に導く。
坂の上で転がり落ちるには、一歩踏み出すというきっかけが要るのです。
問題④「事実と規範(きはん)をこっそり入れ替える」――自然主義的誤謬・論理の飛躍・論点のすり替え
> この話は広い視野でみると「生まれ持った性別によって、なれる人がしぼられている世界が、その世界の中のルールとしては受け入れられている伝統」vs「文明の近代的な考え方(男女平等)」であり、歌舞伎を持ち出した話が無価値であるとは思えません。
このコメントでは、「歌舞伎でも性別制限が受け入れられてきた」という「である」「でない」話から、自動的に「だから皇位継承の性別制限と比べられる」という「すべきである」「すべきでない」を定めた規範(きはん、ルールのこと)の話につなげています。
これらはそれぞれ
・「である」「でない」→【事実命題(じじつめいだい) factual proposition】
・「すべきである」「すべきでない」→【規範命題(きはんめいだい) norm proposition】
という別の話で、事実から規範を自動的に導くことはできないのです。
この問題はデイヴィッド・ヒュームというイギリスの有名な哲学者が示した、【is–ought問題(「事実から規範を導けるか」という問題)】と密接に関連します。
だからなぜ「規範に従うべき」なのかという話がまだ必要なのですが、それはまったく示されていません。
これを【自然主義的誤謬 naturalistic fallacy】といいます。
そしてこの話が成立するためには、「伝統的文脈で受け入れられてきたものは、今後も受け入れられるべきである」という橋渡しにする前提も、同じく必要になりますね。
しかしこの前提もまた明示されていません。
仮定にすぎないものを、まるで確立された事実であるかのように使って結論を導いているのです。
これを【論理の飛躍 leap in logic】と言います。
この【論理の飛躍】は前提がそもそも書かれていないために、「どこが問題か」を見つけること自体がむずかしいのが特徴です。
隠れているものは目に見えないので、見落としやすいのです。
問題③でも2つの誤謬がセットでしたが、あちらは「一方がもう一方の足場を作る」関係でした。
今回の【自然主義的誤謬】と【論理の飛躍】は少し違って、同じひとつのエラーを「どういう定義が隠れているか」と「その定義が示されていないか」というふたつの角度から見た、表と裏の関係になっています。
これを料理で例えると、「昔からこの地域では肉を生で食べてきた」(事実)→「だから肉は生で食べるべきだ」(規範)と同じです。
最初の事実が正しくても、後ろの規範は自動的には出てきませんし、本来は「昔からしてきたことは正しい」という橋渡しの前提が必要になりますが、それも示されていないのです。
さらに重要なのは、この記事が伝えていることは「伝統か近代か」という哲学的(てつがくてき)な話ではなく、「法律上の問題・継承者が足りなくなるという現実的な問題」であることは、きちんと読んだみなさんにはわかりますね。
議論の内容そのものを別の話に置き換える、【論点のすり替え Ignoratio elenchi】がここでもみられます。
論理的誤謬は一回だけでなく、一つのコメントの中に何度も形を変えて出てくることがあります。
見つけるたびに確認する習慣をつけましょう。
問題⑤「中立のふりをして実は片方の味方」――示範
このコメントの最初と最後には、
> 横から失礼します。読者の一人としてちょっとだけ言わせてください。
> お二人の議論、これからも楽しみにしています。
とそれぞれ書いて、丁寧「に見える」書き方で「中立の第三者として話に入った」という印象を受けます。
でもこのコメント全体の内容を確認してみましょう。
・私の指摘を支持している箇所:ゼロ
・「歌舞伎による比較」を支持・擁護(ようご)している箇所:全部
内容は全部一方向なのに、外見は「中立の読者」とする印象操作を行っています。
これを【示範 exemplification】といいます。
子供のケンカでたとえると、AさんとBさんがケンカをしていて、Cさんが「私はただ見ていた人なんですが」と言いながら、先生にAさんの言い分だけを報告しているのと同じですが、それは本当に中立と言えるでしょうか。
最後に――「正論を踏み台にした誤謬」が最も見破りにくい理由
最初に書きました通り、このコメントの一番の特徴は「全部が嘘ではない」という点です。
問題②でも見たように、「ちがいが比べている点に関係することを示さなければいけない」という最初のルール「だけ」は正しいのです。
この正しいルールを最初に言うことで、読む人は「この人はちゃんとした人だ」という印象を持ちます。
そしてその印象によって、後に続く①〜⑤までの誤謬が、正しいかのように見えてしまうのです。
これが「全部嘘のコメント」よりずっと見破りにくい理由です。
みなさんが文章やコメントを読むとき、「どこまでが証明されていて、どこから先が証明なしの主張なのか」を一つひとつ確認する習慣を持つと、情報を見抜く力がぐっと上がります。
コメントの言葉が(見た目だけ)丁寧でも、長くても、ほんの少しだけ正しくても、中身があるかどうかは別の話なのです。
みなさんは横から議論に入るときは、せめて中身のあるコメントをするように心がけましょう。