プーチンの択捉島初訪問と「ヤルタの密約」

プーチン大統領が13日、択捉島を訪問した。『タス』によるとプーチンの我が北方領土訪問は初めてとのこと。それ即ち、大統領就任以来26年間、この地には関心がなかったことの証左であろう。国際法上、北方4島の法的地位は未定だから、高市総理が「断じて許容できない」と非難し、ロシア大使を呼んで抗議するのは当然だ。

とはいえ、日本のメディアが「対日牽制」だの「実効支配強調」だのと勝手な憶測を書き立てるのは如何か。9月の下院選挙でも勝つに決まっているし、訪問はウクライナで劣勢に立たされつつある中、日本をもてあそんで気晴らしし、ロシア国民の目を逸らすのが目的のプーチンらしい夏休み、騒いでも彼を喜ばせるだけだ。

ならば、このプーチンの行動を日本メディアはどう報じるべきかといえば、81年前にソ連が日本に対して行った一連の背信行為を、それ以前に起きたことも含めて書き連ねるのである。以下にそれを記す。話の展開上、時系列が前後することがある。

ヤルタの密約

先ずは「ヤルタの密約」。44年6月の「Dデー」以降、目に見えて劣勢になったドイツ、その降伏を3ヵ月後に控えた45年2月4日から一週間、クリミア半島の保養地ヤルタにローズヴェルト(ロ氏)・チャーチル(チ氏)・スターリン(ス氏)が集い、米英ソ首脳会談(ヤ会談)が行われた。ス氏が身体の弱ったロ氏をヤルタに呼びつけたのであり、ロ氏は帰国後まもなく死去した。

議題は、戦局、ドゴール案件、ソ連のドイツ戦線、連合軍の西部戦線、ドイツ分割、フランスの占領地区、賠償、国連創設、ポーランド、管理委員会、外相会合、ユーゴスラビア、信託統治、欧州解放宣言、戦争犯罪人、捕虜、モントルー条約などである。他にス・チ会談とロ・ス会談が各々2回ずつ持たれ、ソ連の対日参戦は2月8日に第5回会談に先立って行われたロ・ス会談で議題に上った。

因みにモントルー条約とは、36年7月にスイス・モントルーで、ソ、英、墺、土、ブルガリア、ギリシャ、ルーマニア、ユーゴ、日本の9ヵ国の代表により署名された、黒海とエーゲ海を結ぶ海峡の通航に関する条約だ。そこでトルコには海峡地帯を再武装する権利及び海峡通航の監視や管理の任務が与えられた。

平時・戦時を通じて全ての国の商船は通航出来るが、軍艦の通航には黒海沿岸国と非沿岸国で差異が設けられ、沿岸国には自由通航権が与えられた。ソ連軍艦の通航権は平時に限られ、戦時の海峡通航は、トルコが戦争に加わっていない場合、交戦国の軍艦は禁止され、トルコが戦争に加わっている場合は、トルコの判断に委ねられた(「戦後の誕生 テヘラン・ヤルタ・ポツダム会談全議事録」(以下、全議事録」)より)。

「全議事録」に拠れば、ス氏はこの条約について、要旨以下のよう述べた。こうした発言には、日露戦争で日英同盟のもと陰に陽に日本に加勢した英国への恨みが見て取れ、またそれに対するチ氏の話にも、欧州の戦況好転にソ連の力を頼みたいチ氏の立場が滲む。

この条約は時代遅れだ。今思い出すとこの条約には、ソ連にもまして日本の天皇が大きな役割を果たした。条約に関わった国際連盟はもはや存在しないし、天皇もこの場にいない。この条約の下、トルコは戦時のみならず戦争の脅威があれば海峡を封鎖する権利を持っている。今や英国は日本の手を借りてロシアの首を絞めようとは考えていまい。

チ氏は、英国は条約改定に前向きであり、外相会合で本件を取り上げる際、ソ連がそれを提案することを望んでいるとし、トルコ参戦のためにも、トルコに条約改定が検討されていることを知らせておくべきだとした。つまり3首脳は、中立国トルコを連合国の一員として参戦させ、それによりス氏は、戦時のソ連軍艦の海峡通航権を得ようとしたのである。トルコはヤ会談を機に連合国として参戦したが、実質的な戦争は行わなかった。

2月8日、ロ氏は先ず、マニラ陥落で太平洋戦争が新段階に入ったので、小笠原と台湾周辺に基地を設けて対日空爆を強化するとし、徹底的な空爆で日本とその兵力を破壊し、米英の生命を救いたいと述べた。ス氏はアムール川下流に米軍基地を置くことも異存はないと応じ、ロ氏も日ソ開戦となった際の、太平洋と東シベリアを経由する補給路の重要性を強調した。

その上でス氏は「ソ連の対日参戦の政治的条件について話し合いたい。この件では既にハリマン大使と会談した」と切り出した。ロ氏は、「聞いている。南樺太とクリル諸島をロシアに帰属させることに困難はない」と述べ、「テヘラン会談」(テ会談)でス氏が極東に不凍港を求めた件にも言及、「ロシア人による満州の諸鉄道」の件と併せて、ス氏に寄り添った。

こうして「ヤルタの密約」と呼ばれる合意文書「極東問題に関する三大国協定」が成った。その内容はこうだ。

ソ連、米国、英国三大国の指導者は、ドイツの降伏および欧州における戦争の終結の後、二ないし三ヵ月を経て、ソ連が次の条件の下に連合国の側において日本と開戦することに合意した。

1. 外蒙古の(モンゴル人民共和国)の現状は維持される、

2. 1904年に日本の背信的な攻撃により侵害されたロシアの旧権利は回復される。すなわち

  1. サハリンの南部およびそれに隣接する全ての島嶼はソ連に返還される。
  2. 大連商港は国際化され、同港におけるソ連の優先的利益は確保される。また旅順港はソ連海軍基地として租借を回復される。
  3. 東支鉄道および大連を出口とする南満州鉄道は、ソ連・中国合弁会社の設立により、共同で経営される。ただし、ソ連の優先的利益が確保され、中国は満州において完全な主権を保有するものとする。

3. クリル諸島はソ連に引き渡される。

外蒙古および上記の港湾と鉄道に関する合意は、蒋介石総統の合意を要するものとする。大統領はスターリン元帥の助言により、この同意を得るための措置をとる。

三大国首脳は、これらのソ連の要求が日本の敗北後無条件に満たされなければならないことについて合意した。

ソ連としては、日本の桎梏から中国を解放することを目的として、その軍事力による援助を供与するため、中国国民政府とソ中友好同盟条約を締結する用意があることを表明する。

実は、ソ連の対日参戦は43年11月28日から12月1日まで同じ3首脳がイランの首都テヘランに集って4回行われたテ会談で、ほぼ合意されていた。テ会談の議事案件は、戦局、ソ連対日参戦、地中海作戦、オーバーロード作戦(=ノルマンディ上陸作戦)、中立国トルコの参戦、国際機構、カイロ宣言、自由港、極東、フィンランド、バルト、ポーランド、ドイツなどであった。

チ氏は「黒海海峡」の問題に絡めて、満州、台湾、澎湖島を日本から中国に返させ、朝鮮を独立させるとする「カイロ宣言」に言及してス氏に水を向けると、ス氏はすかさず「ソ連は極東でも封じ込まれている、極東のどの港からも下関海峡か対馬海峡を通らねばならないが、いつ日本に封鎖されるか知れない」と述べた。

ロ氏も、関連して自由港構想について述べたいとし、極東では大連のような港が自由港になり得ると発言、ス氏が同意し「だが中国が不満かも知れない」というと、「いや中国は完全に同意するだろう」と述べた。ス氏は「世界の統治はその能力を有する諸民族の手中になければならない」と述べ、チ氏が「まさにその通り」と同意した。

ソ連の対日参戦に入る前に、如何にもス氏らしい興味深い発言を紹介する。チ氏がノルマンディ上陸作戦について「この作戦の準備をカムフラージュして敵を欺かねばならない」と述べた際、ス氏がこう話したのだ。

そのような場合、我々は戦車や飛行機の模型を作り、偽の飛行場を建設して敵を欺く。トラクターでこれらの模型を動かし、敵のスパイがこの移動を敵に伝えると、ドイツ側はこの場所で攻撃が準備されていると思い込む。一方、実際に攻撃準備するときは、夜中に静かに行うのだ。

で、ソ連の対日参戦だが、「全議事録」のテ会談にその記述はないが、同書の「訳注」に、テ会談で通訳を務めたボーレン米国務長官補佐官(後に駐ソ大使)の回顧録『歴史の証人 1929~1969年』に以下のように記述があることから、テ会談でそれが話題に上ったことが明らかになったのである。

アジアにおける戦争にソ連が参加する代償として、ソ連の要求についてかすかなヒントがあった。・・テヘラン会談の記録の中には見つけられないが、スターリンがローズヴェルトに対し、時を違えず対日参戦のための条件を知らせる、と述べたことははっきりと覚えている。

近現代の北方領土

我が北方領土を最初に定めた日露間の条約は1855年の「日露和親条約」だ。これで国後・択捉・歯舞・色丹の四島が日本領、得撫島以北がソ連領と決められ、樺太は両国民が出入りできる地と定められた。その後、樺太でロシア人による開発に絡む紛争が頻発したために、1875年の「樺太千島交換条約」によって、全樺太をロシア領とする代わりに全千島列島が日本領となった。

そして1904年2月、ス氏が「日本の背信的な攻撃」とする日露戦争が起きた。これに日本が勝ち、セオドア・ルーズベルト米大統領が仲介した「ポーツマス条約」で北緯50度以南の南樺太が日本の領土となった。ロシア軍の満州引き上げや旅順・大連の租借権・満州の鉄道利権の日本譲渡も、この歴とした「講和条約」で決まったのである(拙稿「台湾と千島、その法的地位」)。

筆者は拙稿「日本が先に『日ソ中立条約』を破ったと主張する日本人学者(前・中・後編)」で、そもそも「45年8月10日にはスイスを通じて米国にポツダム宣言受諾の意向を表明していた日本に対し、8月8日未明に中立条約を破って対日参戦したソ連」に「東京裁判への参加資格があるのか」との疑問を呈したことがある。

日本は、ノモンハン事件直後の39年8月23日に「独ソ不可侵条約」が結ばれたことに呆然とし、41年4月25日に急遽「日ソ中立条約」を締結した。が、ドイツは同年6月、「独ソ不可侵条約」もものかは「バルバロッサ」を発動、日本の一部支配層から、この機に乗じてドイツと呼応し、シベリアを攻略すべきとの主張がなされた。が、7月2日の御前会議で「即時対ソ開戦論を抑えながら、解除条件付開戦意思が公式に決定された」経緯がある。

拙稿「『ポツダム会談』の議事録を読む」で触れた、同会談でス氏が近衛公のモスクワ訪問提案の紹介の通り、日本の和平仲介要請にソ連は、日本への宣戦布告を以て応じた。5年とされた「日ソ中立条約」の期限を1年余していた。ソ連はヤ会談後の45年4月5日 、同条約の破棄を日本に通告したが、日本は「延長しない」と解していた。シベリア攻略もこの解釈も、良くも悪くも日本らしい。

最後に、拙稿「ソ連の北方領土占拠、米国は『武器貸与法』等で加担した」から、ソ連による千島・樺太蹂躙の経過を時系列に並べて稿を結ぶ。ここにロシアという国の本質が凝縮されている。

8月08日 ソ連軍、未明に満洲と北朝鮮に侵攻開始(ドイツ降伏からきっちり3ヵ月後)
8月14日 ポツダム宣言受諾のご聖断
8月15日 終戦の詔(玉音放送)
8月23日 ソ連軍、カムチャツカ半島から千島北端の占守島に侵攻し占領
8月23日 日本軍北方司令官堤中将、得撫島以北の日本軍に降伏命令
8月24日~31日 カムチャツカからのソ連軍、得撫島までを順次占領
8月28日 樺太からのソ連軍、択捉島に侵攻し占領
9月01日  〃  国後島に侵攻し占領
9月01日  〃  色丹島に侵攻し占領
9月02日 降伏文書調印・一般命令第一号署名(ミズーリ艦上)
9月02日 ソ連軍、歯舞群島占領命令
9月03日  〃  歯舞群島上陸
9月05日  〃  歯舞群島占領

 

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