
昨今、皇室典範改正問題を契機に、皇位継承のあり方が国民的議論となっている。男系男子による継承を堅持すべきという保守派の主張に対しては、「男系によって皇位が連綿と受け継がれたという『万世一系』は明治政府がつくった歴史の浅いフィクションにすぎない」といった批判も出されている。
確かに「皇位は男系で継承されるべき」と明記した前近代の史料は存在しない。しかしそれは男系継承という原則の不在を意味するものではなく、むしろあまりにも自明であるがゆえに記されなかったと考えられる。
中世以降、血縁集団の基本単位として確立したイエは、男系による継承を原則としており、天皇家(皇室)もまた例外ではあり得ない。というより、この原則に最も忠実たらんとしたのが天皇家であったと言えよう。そこで本稿では、中世的「家」の成立と、その特質である男系継承について概説しておきたい。
古代から中世への移行期において、日本の家族構造は根本的な変化を経験した。古代の日本社会は、父方と母方の双方の血統を重視し、政治的な地位や財産を双方から受け継ぐ双系制的な特徴を持っていた。古代において女性天皇が次々と即位した背景には、双系制社会の存在があった。
なお古代の皇位継承においては母方の血統も重視されたので、皇族同士の結婚が好まれ、現代の価値観から見ると違和感をおぼえるほどに近親婚が多い。「元正天皇(父:草壁王子 母:元明天皇)の即位は女系継承なのではないか」との意見もあるが、皇族女性と非皇族男性との結婚を想定している現代の女系天皇論の参考にはなりづらいように思われる。
双系制の古代においては、共通の祖先にあたる共通の神を祀る同族集団たる「氏」の権力や財産は、能力による選抜や一族内の競争を経て、兄から弟や、叔父から甥へと受け継がれることもしばしばあり、必ずしも父親から息子へと一直線に継承されるわけではなかった。
けれども、時代が下るにつれて、こうした大規模な同族集団である「氏」が次第に解体していき、その下にあった「家」が自立した単位として成立していくことになる。ここに古代社会から中世社会への転換が認められる。中世社会の象徴とも言える、この新しい「家」のことを、歴史学界では中世的「家」と呼ぶ。
中世における「家」とは、一世代一組の嫡系の夫婦を中核とし、親の世代から子の世代へと垂直方向に連続していく広義の生活組織として定義される。この「家」は、屋敷地や家屋を共有し、同居する夫婦・親子・兄弟姉妹を中心に構成された最小単位の生活共同体である。中世的「家」は、単に不動産や動産などの財産を所持して生産・労働を行う経営体であるだけでなく、家業や社会的な地位を保持し、それを次世代へと受け継いでいくという極めて重要な機能を持っていた。
この「家」の継承において中心的な原則となったのが、父親から正妻の長男(嫡男)へと地位や財産を譲り渡す男系継承である。中世の「家」は、家督を世襲することによって子々孫々、未来永劫続くことが前提となっており、その際、男系による継承が理想的であると見なされていた。
仮に跡継ぎとなる実の息子に恵まれなかったり、息子が早世したりした場合であっても、「家」を絶やすことは許されなかった。そのような非常時には、弟や甥、あるいは孫などの男系男子を養子として迎え入れることで、あくまで「父親から息子へ」という嫡系継承の体裁を維持する努力が払われた。時には女性の血統や縁戚関係を頼りに養子を迎えることもあったが、男系優先であることは不文律であった。
もちろん歴史上には北条政子や日野富子など、有力な後家(未亡人)が家政を取り仕切り、事実上の家長として君臨した事例も存在する。だが、これらは本来家督を継ぐべき幼い男子が大人になるまでの間の「中継ぎ」としての役割に過ぎず、暫定的な措置として位置づけられていた。古代の女性天皇とは異なり、中世の女性当主はあくまで例外であり、最終的な家督の帰属先は男系男子にあったことがうかがえる。
中世社会がここまで「家」の永続と男系継承に固執した背景には、中世的「家」が公的な性格を持っていたという事情がある。中世においては、朝廷や幕府、さらには村や町に至るまで、社会のあらゆる組織は個人の集まりではなく、「家」を基本構成単位としていた。特定の公的な業務や家業を担う「家」が断絶することは、公的な組織の消滅や機能不全を意味するため、「家」は永続することが強く義務づけられていた。
そして律令制導入以降の日本の公的な空間、表の世界は、男性中心となっていったから、政治に深く関わる「家」の代表者には、必然的に男性が就くことが求められたのである。
このような男系継承を中心とする「家」のシステムが確立していくにつれ、社会の慣習、特に結婚や財産相続のあり方も男性優位なものへと大きく変化していった。
古代において主流であった男性が女性の元へ通う「妻問婚」は、夫婦関係の安定と共に、夫婦が妻の実家で同居する「婿取婚」へと移行し、さらに女性が男性の用意した家へと入り、夫の家族と同居する「嫁取婚」の形態へと変化し、公家や武家の間で定着していく。生活の基盤が夫側に置かれるようになったことは、男性を中心とした家の構造をさらに強固なものにした。なお、最も早期に「嫁取婚」的な婚姻形態を成立させたのが天皇家であったことは言うまでもない。
財産相続に関しても同様である。古代においては男女均分の財産相続慣行があり、その名残りで中世前期(院政期・鎌倉前期)にはある程度の差を持たせながらも男女諸子に比較的均等に財産を配分する分割相続が一般的であったが、時代が進むにつれて方針が転換された。所領の拡大が限界に達した状況下で分割相続を繰り返せば、一つの家が所有する財産は細分化され、共倒れになってしまうからである。
そのため、「家」の永続を最優先する観点から、鎌倉後期以降は財産の大部分を嫡子が独り占めする嫡子単独相続へと移行していった。この結果、庶子(嫡子以外の男子)や女子への財産譲渡は非常に限定されるようになり、彼らは嫡子に「扶持」されて従属する立場へと転落していった。
女子に所領が与えられる場合であっても、それは「一期分」と呼ばれ、自身の生存期間のみ所有が認められる一代限りのものとされた。本人の死後は実家などの本家に所領を返還しなければならず、これは女性を通じて家の財産が嫁ぎ先の他家・他氏へ流出することを防ぐための措置であった。 このように、男系継承と「家」の永続は不可分に結びついていた。
さらに、男系継承による家父長的な「家」の完成は、女性の地位や自由を大きく制限することにもつながった。中世的「家」においては、妻は夫の支配下にあり、男系継承が原則である以上、嫁いだ女性は婚家に従属せざるを得なかった。
鎌倉時代の「御成敗式目」において、若妻を娶るために落ち度のない古女房を離縁することが財産放棄と引き換えに容認された一方で(ちなみに、ここでの落ち度とは不倫や不妊を指す)、夫と死別した後家の再婚は道徳的に非難され、出家して亡き夫の菩提を弔うことが求められるなど、離婚や再婚においても男女不平等が存在していた。女性史研究は「昔は女性は自由であった」と古代・中世を理想視する傾向があり、相対化していく必要がある。
また、妻を寝取られた夫が、相手の男性(間男)と妻を殺害する名誉殺人である「妻敵打(めがたきうち)」という慣習が許容された。このように、妻に対する夫の強い家父長的支配権が社会的にも容認されていたのである。
総じて、中世における「家」は、公的な役割を担う社会の基本構成単位として機能しており、その組織を恒久的に維持するために男系継承というシステムが不可欠とされていた。この原則が社会の隅々にまで浸透した結果、婚姻や財産相続といったあらゆる生活規範が男性を中心としたものへと再構築され、現代にまで通じる家父長的な家族観の原型が形作られたのである。







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