病院という聖域⑨:PCR偏重と発熱拒否が生んだ医療アクセス崩壊

Igor Paszkiewicz/iStock

(前回:病院という聖域⑧:コロナ禍の帝王切開は医学的理由だったのか

2021年8月、千葉県柏市で新型コロナに感染した30代の妊婦(妊娠29週)が入院先を見つけられないまま自宅で出産し、新生児が死亡する事案が起きた。

女性は11日に陽性確定、14日夜に中等症と判明し、翌15日から県と市が入院調整を開始した。しかし産科とコロナ対応の両方に対応できる周産期母子医療センターなど少なくとも9カ所に断られ、出産当日も受け入れ先は見つからなかった。

医師不在での自宅出産という帰結を招いた直接の理由は「満床・対応中」だったが、その背後には病床逼迫とともに、コロナ対応が歪めた医療提供体制の構造的問題があった。

この出来事は単なる病床不足ではない。コロナ禍で起きていたのは、医療そのものの崩壊ではなく、医療への入口が閉ざされる「医療アクセス崩壊」である。その構造は、PCR検査の誤用に端を発し、陰性証明の許可証化、発熱者拒否、そして公金依存という重層的な歪みによって形成されていった。

PCR陽性=感染者という定義の歪み

まず見落とされているのが「感染者」の定義の変質である。本来、感染者とは発症や感染性といった時間的プロセスを含む概念である。しかしコロナではPCR陽性がそのまま感染者とされた。PCRが捉えるのはある瞬間のウイルス遺伝子の有無という「点の情報」にすぎず、感染初期か回復期か、感染性があるかを区別しない。この単純化が政策と社会認識の出発点を歪めた。

さらに本質的なのは時間軸の問題である。コロナ禍初期、日本では検査から結果判明まで数日を要した。検査時に陰性でもその後発症する例、結果が出る頃には既に感染を拡大している例は不可避である。これは検査精度ではなく時間差による構造的限界だが、PCRは感染制御の中心に据えられた。

加えてPCRは、がん検診のようなスクリーニングとして扱われた。しかし感染症は数日単位で状態が変化する時間依存性の強い疾患であり、がんとは前提が異なる。「早期発見で防げる」というモデルは成立しない。検査は安心の代替物として機能し、陰性証明は行動の許可証となった。

陰性証明が「許可証」になった日

ここで生じたのがリスク補償である。陰性結果は安全と誤認され、イベント参加や旅行といった行動を促す。時間差による「後発陽性」と組み合わされば、検査は感染拡大の媒介条件にもなりうる。PCRは感染制御の手段であると同時に、使い方次第では感染を広げる要因にもなり得た。

この許可証化は、社会の広範な場面に波及した。企業が体調不良の従業員に出社前の陰性証明を求め、学校や幼稚園・保育園が発熱した子どもの登校・登園再開に際してPCR陰性の証明書を保護者に要求するケースが全国で相次いだ。

しかし、これは医学的根拠を欠く運用である。発熱翌日に陰性証明を取得しても、その後に発症・感染性が生じる可能性は排除できない。また検査の需要を不必要に押し上げ、医療機関の負荷を増大させた。さらに保護者が陰性証明を得るために発熱した子どもを連れて医療機関を受診するという本末転倒の事態も起きた。

「陰性なら安全、発熱は危険」という誤認が組織の自衛論理と結びつき、検査が感染管理ではなく責任回避の手段として機能したのである。

発熱者を拒否した医療——逆転現象の構造

社会全体に広がった「発熱=危険」という認識は、医療機関の行動原理にも同様に働いた。多くの医療機関が発熱や咳を理由に一般外来での診療を制限し、発熱外来に集約した。本来、感染症の疑いがある患者こそ迅速な医療アクセスを必要とするが、発熱外来への集約は受け皿の容量を構造的に絞り込んだ。

その結果として病床は逼迫し、感染症患者ほど医療にアクセスできないという逆転現象が生じた。柏市の事案における「満床」は、この構造的絞り込みの帰結と見ることができる。

この背景には制度的誘導がある。感染対策・動線分離・診療リスクの増大により、診るより回避する方が合理的となった。空床補償や補助金、特例診療報酬によって収入が公費に依存する構造も生まれた。

公金・ワクチン・診療拒否——三重の非対称

ここに決定的な問題がある。多くの医療機関は公金によって支えられていたにもかかわらず、発熱患者の受け入れを制限した。加えて医療従事者は優先的にワクチン接種を受けていた。これは合理的措置だが、その後も診療拒否が続いたことは別の意味を持つ。すなわち、

  • 公金は受け取る
  • ワクチンで自己防衛は確保する
  • しかしリスクのある患者は受け入れない

という三重の非対称である。この条件下では、診療しないことが合理的選択になる。制度は結果として「診ない医療」を生み出した。

この非対称の裏面として、コロナを引き受けた側への負荷集中がある。大阪市立十三市民病院は2020年5月からコロナ中等症専門病院となったが、4月から11月末までに医師10人、看護師12人、看護助手9人の計30人超が離職した。

感染者の病室には清掃業者も家族も入れないため、看護師が掃除から介護まで担い、通気性の悪い防護服での長時間作業が体力を消耗させた。専門性を発揮できないキャリア喪失感も医師の離職を加速させた。加えて、重症病床が逼迫していたため、本来は中等症専門の同病院に悪化患者を留め置かざるを得ないケースが増え、さらに負荷が集中した。

コロナを断った医療機関は公費に守られ、引き受けた医療機関は疲弊して崩れた。制度設計の非対称が、現場の非対称を生んだのである。

崩壊したのは入口だった

感染拡大が全国規模に達した段階では、検査能力、隔離、追跡のいずれも限界に達した。スクリーニング検査は理論上可能でも運用上は破綻し、PCR中心の対策は持続不能となった。

ここで改めて問い直す必要がある。コロナ禍を通じて「医療崩壊」という言葉が繰り返し使われたが、重症管理の中核をなす人工呼吸器やECMO(体外式膜型人工肺)が全国的に枯渇した局面はほぼなかった。

逼迫が生じていたのは、コロナ専用に確保されたコロナ病床の使用率であり、一般の病院全体でみれば病床は余っていた。全国の一般病床・感染症病床は約89万床あったが、実際にコロナ対応に充てられたのは一時期でも数万床規模にとどまり、民間病院の多くは受け入れに参加しなかった。

崩壊したのは医療キャパシティではなく、患者が医療に到達するための経路と仕組みだったのである。

さらに問題を深刻にしたのが「幽霊病床」の存在である。政府はコロナ病床確保のため、患者を受け入れていない空床にも補助金(病床確保料)を支払った。ICUで1床あたり1日最大43万6千円にのぼり、実際に患者を受け入れるより空床にしておく方が経営的に合理的という構図が生まれた。

会計検査院の調査では病床使用率が50%を下回った病院が半数以上に達した局面もあり、補助金を受け取りながらコロナ患者を受け入れない「幽霊病床」は制度が意図せず生み出した帰結だった。病床は数字の上では存在した。しかし患者は、そこに到達できなかった。

以上を踏まえれば、コロナ禍で起きたのは医療崩壊ではない。感染定義の単純化、時間軸の無視、検査の誤用、陰性証明の許可証化、発熱者拒否、そして公金依存の非対称が重なり、医療への入口そのものが閉ざされたのである。「満床」はその構造の末端で起きた現象に過ぎない。

では、なぜ新生児は救えなかったのか。検査も制度も資金もあった。しかし患者はそこに到達できなかった。公金で支えられ、ワクチンで守られた医療であっても、発熱という理由で入口が閉ざされれば意味はない。

その帰結が、9カ所の拒否と、自宅出産と、新生児死亡である。

この構造を直視しない限り、同じ失敗は繰り返される。

【次回予告】
次回は「なぜ日本だけがマスクを外せなかったのか」を取り上げる。アクリル板・時短営業・マスクといった「見える対策」が感染制御よりも安心の演出として機能した構造を検証し、対策の形式化がいかに社会に固定化されたかを論じる。

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