ネット生保立ち上げ秘話(18)予備免許 - 岩瀬大輔

岩瀬 大輔

休戦
 二〇〇八年三月一九日の午後。最終のユーザーテスト中に発覚したシステムトラブルへの対応を、もう一人の副社長である野上と議論していた。

 事務の安定性を考えて、今のうちにシステムを抜本的に修正しておくべきと主張する野上。開業が二ヶ月後に迫ったこの局面では、システムに手を入れるのは極力避けるべきで、業務側の事務フローを変更することで対応すべき、と主張する僕。議論は平行線を辿っていた。

 そのとき、デスクの電話が鳴った。電話の主は、人事担当と社長秘書を務める、川越。

 「川越さん?会議、三時からですよね。ちょっといま、取り込み中なんですけど・・・」

 「社長がお話したいと言っています」

 「出口さん?あとじゃぁ、だめですか」

 「野上さんと二人で、至急、とのことです」

 野上とはいったん「休戦」をして、オフィスの入り口付近に位置する出口の部屋に、二人で向かった。


 社長室に急いで足を運ぶと、緊張した顔で出口が受話器を手にしていた。

 「はい、かしこまりました・・・私どもは、野上と岩瀬の三名で参ります・・・どうぞ、よろしくお願い申し上げます」

 電話を切ると、出口が言った。

 「金融庁。三時に来るように、と。たぶん、予備免許を頂けるんだと思う。急いで株主の皆さんにメールを打つから、出かける準備をしておいて」

 顔は紅潮し、いつになく緊張した模様だった。

 二〇〇六年十月にはじめて金融庁の保井保険課長を訪ねてから、一年半。本免許の手続きが控えているものの、事実上、生命保険会社の認可手続きの終息が見えた瞬間だった。

「そんな会社に免許が下りる訳がない」

 出口も僕も、二人ではじめた当初から、認可が下りないという事態を、一度たりとも考えたことはなかった。きちんとした理念とビジネスモデルさえあれば、必ずしや当局の信任は得られるに違いない。そのような信念に基づき、一流企業に出資を仰ぎ、仲間をひとりひとり、増やしていった。

 しかし、客観的に見たならば、ネットライフが生命保険業の免許をもらえるかどうかは、決して定かではなかった。むしろ、まったくの新設会社の免許取得は難しい、という声は少なくなかった。

 ある外資系生保から転職してきた同僚によると、ネットライフへの転職を上司に相談すると、こう諭されたという。

 「不払い問題がこれだけ問題になっている中、新規の会社、しかも保険会社がバックについていないベンチャーに免許が下りるわけがない。免許が取れない準備会社に在籍したということは、お前のキャリアにとってなんらプラスにならない。転職は、絶対に辞めるべきだ」

 出口も、前職時代にお世話になった方に挨拶に行くと、こう言われたという。

 「アイデアはいいんだけど、タイミングが悪すぎるよなぁ・・・金融庁が不払い問題の処理にこれだけ忙しいなか、新規会社の免許に時間は割いてくれないだろう。我々ですら、担当官のアポを取るのに、四苦八苦している。」

 このように、当時の業界の常識では、まったくの独立系の会社が生命保険会社としての認可を受けることは、なかなか想像しにくかったのだ。

 実際、戦後、保険会社の後ろ盾なくして、新たに生命保険業の免許をもらった会社はない。その例外とも思えるソニー生命は、プルデンシャル生命との合弁としてはじまっていたし、オリックス生命も、もともとはオクラホマ生命を買収して営業開始している。そしていずれも、親会社が明確であり、高い信用力を持つ企業である。

 我々が認可をもらえることができれば、戦後初の独立系生命保険会社が誕生したことになる。

 実は、会社作りの過程では、保険会社の資本を入れるべきか、何度となく議論をした。本当に、まったくゼロから生命保険会社を作れるのだろうか?システムや事務構築、あるいはお客さまから見たときの信頼という観点からは、大手の保険会社をバックにつけた方がいいのではないか?

 事業計画を作っているとき、事務とシステム構築をしているとき、あるいは消費者調査をやっているとき。何度となく、これらの疑問は出てきたし、不安にもなった。それでも結局、「既存の制約は一切受けない、まっさらから独立系の生命保険会社を作ることにこそ価値がある」という出口の理念にしたがい、僕らは独立の道を歩んできた。

蕎麦屋の出前

 申請書の最終版の提出を指示され、金融庁の担当官に「今から書類をお届けします」と電話で伝えてから、数時間が経っていた。まるで、蕎麦屋の出前だよね、そんな冗談を言いながら、最終準備を進めていた。

 総務部五名全員勢ぞろいで最終資料作りのためにコピーをして、すべての紙の読み合わせをした。作業は、夜遅くまで続いた。申請書類の最終版を用意し、金融庁に届けたのが、前の週の三月一〇日の深夜過ぎだった。

 そこからは、ただ待つだけ。

 毎日のように、出口の部屋に足を運んでは、軽口を叩いていた。

「社長、金融庁からの電話、まだですかー。はやく免許くださーい」

「まぁ、気長に待とうよ。ペイシェンスが大事だよ」

 この予備審査終了の知らせは、決して不意なものではなかった。実はこの前日の三月一八日、予備免許をそれまでに頂ける前提で、取締役会と臨時株主総会を招集していたのだった。

 予備審査終了の通知があることを前提に、第三者割当増資を決議し、臨時株主総会を開催し、生命保険会社へ定款と商号を変更し、役員が入れ替わり、することになっていた。

 本来、予備免許の付与時期はまったくもって当局の裁量であるから、我々がこのような形で取締役会や株主総会を招集すること自体、まったくもって勇み足ではある。

 しかし、このようにせざるをえなかったのには、なんとか三月三一日までに機関投資家による五十二億円の第三者割当増資を実行するためには、これがぎりぎりのスケジュールだったことがある。一度は出資を決定してくれていた投資家も、会計年度末である三月三一日を超えてしまうと新しい予算になるため、金融情勢が荒れているなか、資金枠を確保できるかわからない、ということだったのだ。

 そして、当初の事業株主となってくれた六社とは違って、このラウンドで入ってくる機関投資家は「免許リスクは取らない」ことで合意していた。すなわち、免許が出た段階ではじめて、お金を出してくれるというわけだ。

 三月一八日当日もなお、ぎりぎりで電話がもらえることに期待をかけて、増資にかかわる議案を後回しにした。なんとしても、増資を成功裏に終えるために、まさに綱渡りだった。結局、この日は免許は出なかったので、議案は取り下げることとなった。

 しかし、この数週間、日本、そして世界の金融情勢は荒れに荒れていた。サブプライム危機以降、世界経済は低迷しており、予断を許さない状況だった。為替は一時期一ドル九五円までつけて、一九九五年以来の円高となっていた。日銀新総裁の任命で与党と野党はもめており、戦後初の総裁空席になるかもしれない、という政治的な混乱もあった。

 金融庁は忙しすぎて、とてもじゃないけどネット生保の認可手続きどころじゃないだろうなぁ、という気持ちもあった。

 そんな中の、朗報だった。

予備免許

 虎ノ門の新庁舎まではタクシーでワンメーターちょっと。車を降りて、エレベーターを昇る。初めて金融庁を訪れた日と同様、この日も雨だった。いつも早足の出口も、この日は輪をかけて早い。どんどん、先へ行ってしまう。

 金融庁の入口ははじめての人にはわかりにくい。何度も行っているはずなのに、出口は緊張しているのか、会計検査院の入口に入ろうとし、また金融庁の建物では前の人に続いて、保険課がある九階ではなく、検査局がある八階で降りようとしていた。

 担当の係長の方が出迎えてくれて、新庁舎になってからは通してもらえなくなった、執務室へ案内して頂く。すると、保井課長が出迎えてくれた。

 「予備免許をお渡ししますので、おかけください」
 
 そして、紙に書かれた言葉を読み上げた。

 「ネットライフ企画株式会社 代表取締役 出口治明殿
  内閣総理大臣 福田康夫

  ライフネット生命保険株式会社(仮称)の生命保険業免許に係る予備審査について
  
  平成一九年一二月二六日付で申請のあった表記のことについては、更に的法手続による免許申請がある場合には、改めて内容を審査した上、免許することと決定したので通知する。」
 
 紙には、総理の大きなハンコが押してあった。なんだか、一気に体の力が抜けた。全身を、なんとも言えない安堵感と幸せな感情がこみあげてきた。

 帰りのエレベーターの中で、三人でがっちり握手をした。帰りのタクシーの中では、もらった書面を、交代で何度も読み返した。

 まっさきに、携帯で谷家さんにメールを打った。

 「出ました!」

と、件名に書いただけ。それでも、伝わることは分かっていた。すると、すぐに興奮した谷家さんから電話がかかってきた。

 「よかった!いやぁ、本当によかったよ。よく、ここまでもってきたよ。本当によかった。僕も、本当にうれしいよ」

(つづく)


過去エントリー

第1回  プロローグ 
第2回  投資委員会 
第3回  童顔の投資家 
第4回  共鳴   
第5回 看板娘と会社設立 
第6回 金融庁と認可折衝開始
第7回  免許審査基準
第8回 100 億円の資金調達
第9回  同志
第10回  応援団
第11回 金融庁の青島刑事
第12回  システム構築
第13回  増えていくサポーター
第14回  夏の陣
第15回  伝説のファンド、参戦
第16回  ラッキーカラーはグリーン
第17回  偶然のメール