織田と豊臣の真⑫ 大政所の死が秀次事件の原因

※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)を元に、京極初子の回想記の形を取っています。(過去記事のリンクは文末にあります)

文禄四年(1595年) になって、太閤殿下による関白殿下の包囲網は狭まりました。それでも、太閤殿下が聚楽第を訪ねられたり、秀次さまが伏見で能を上演して太閤殿下を招待されたりしたのですから、いくらでも修復のチャンスはあったはずです。

『聚楽第図屏風』部分(三井記念美術館所蔵/Wikipedia)

けれども秀次さまは欲が出てしまったのか、秀吉さまの心配を払いのけるような思い切った行動がとれませんでした。その間にも、太閤殿下のもとには、秀次さま周辺の不穏な動きが報告されました。

もちろん、姉の茶々やその周辺の者が、お拾君の将来への不安を取り除いてくれるように太閤殿下に迫ったのも当然ですし、家康さまと利家さまも「太閤殿下のお好きにされればあとは我々がお拾君をお守り申し上げます」というくらいは言ったに相違ないかと存じます。

このころ家康さまは江戸に帰国されることになったのですが、京都に残る秀忠さまには、秀吉さまと秀次さまの争いになったら、秀吉さまにつくようにと言い残されたそうです。

そして、7月3日になって、石田三成さまと増田長盛さまが秀次さまに行状を詰問いたしました。それを受けて、関白殿下は朝廷に銀五〇〇〇疋を献上して救援を求めましたが、これは、悪あがきです。

むしろ、関白を辞めるとでも太閤殿下に申し出れば良かったのかもしれませんが、周辺の若い人たちはそれを許してくれません。

こうして無為に時間を過ごすうちに、太閤殿下は一計を案じられました。このころ、いまでいう女性秘書として重宝されていた孝蔵主を聚楽第へ派遣して、言葉巧みに、単身で伏見に来れば太閤殿下も納得されるといって連れ出させたのです。

孝蔵主は近江の武士の娘ですが、女奉行と言うべき実力者で、こののちもたびたび登場する女性です。しかし、伏見についた関白殿下はただちに高野山にいくように命じられたのでございます。7月8日の出来事です。

高野山の豊臣秀次(月岡芳年『月百姿』/Wikipedia)

そして、太閤殿下は前田玄以さまをして朝廷に秀次さまの追放を奏上し、15日には福島正則さまを高野山に派遣して切腹を命じたのでした・・・。

秀次さまの妻妾や子供たちは三条河原に引き出されて残らず刑死させられました。菊亭大納言さまや最上義光さまなど妻妾たちの父たちは必死になって助命を訴えましたが無駄なことでございました。

秀吉の姉の嘆き

この騒動を聞いた太閤殿下の姉であり秀次さまの母である「ともさま」は、清洲におられました。秀次さまの領地を夫婦で管理されていたのです。秀次さまというと近江八幡山城主のイメージが強いのですが、それは、小田原の役の前のことです。

ともさまは清洲から上京して赦免を訴えようとなさいましたが、阻止されました。そして、関白殿下の父である三好吉房さまは阿波に、菊亭大納言さまも越後に流されました。

太閤殿下にしてみれば、甥を可愛がって関白にまでしてあげたのに、その恩を忘れて自分を排除しようという動きをし、お拾君の将来を保証する姿勢を明確にすることを忌避したという気分だったのでしょう。

少なくともそう信じなければ、秀次さま本人だけでなく周辺の皆々まで、あのような残酷な処分はできなかったのです。

こうして、太閤殿下は気の毒なことに、弟の秀長さまと妹の旭姫、それに母の大政所さまを相次いで失ったあと、残された姉とも修復が不可能な間柄になってしまわれたのです。

この不幸を北政所さまがどうして防げなかったのか、不思議に思う方もおられましょう。豊臣家の女将として辣腕を振るって来られた北政所さまでしたが、やはり、大政所さまの信頼あってこそということもあったのでないでしょうか。

大政所さまが3年前に亡くなったことで、秀次さまの母上でおられる「ともさま」たちと北政所さまも疎遠になっていました。お江の夫である秀勝さまの死も打撃でした。

秀次さまをこんなことにしたことについて、北政所さまも、大政所さまに申し訳ないと口惜しくてしかたなかったと思うのですが、いかんともできなかったのです。

こののち、北政所さまはすっかり元気がなくなられました。太閤殿下が亡くなったあと、本当なら、北政所さまが秀頼さまの後見をされても良かったはずですが、秀吉さまがそのように差配されなかったのは、北政所さまの衰えがあったからなのでございます。茶々が邪険にしたからなどといわれては、姉が気の毒なのです。

そして、幸福だった時代の面影を消し去ろうということでしょうか、あの豪華な聚楽第を跡形なく取り壊されてしまったのでございます。もともと平安京大内裏のあとに築かれた聚楽第のあとは市街地に埋もれてしまっていますが、ところどころに、堀や池の痕跡や聚楽廻などという地名が残っています。

また、広島城は聚楽第を真似たと言われていますから、少し様子がしのばれるかもしれませんし、西本願寺の飛雲閣には聚楽第から移築されたという言い伝えがありますが、それにふさわしい桃山建築の傑作です。

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