※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」 』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
大河ドラマの「龍馬伝」では、私が数えで12歳のときに、上士の子どもと喧嘩をして、それを雨の中、ずぶ濡れになって謝りに行って死んだとしていた。しかし、そんなものは全くの作り話だ。勝手に親殺しにするのはひどいと思う。
だいたい、もし、そんなことがあったら、私はまったく別のキャラクターになっていたに違いない。
しかし、いずれにせよ、弘化3年に、母が49歳で亡くなってしまった。しばらくして、父は北代家出身の伊与という女性と再婚した。下田屋という廻船問屋を営む川島家に嫁したが、夫と死別していた。
形の上では、川島家から嫁入りしたことになり、私も「母の実家」ということで川島家には、のちのち、いろいろお世話になった。
それから2年ほどして、私は、日根野道場で小栗流剣術を習うことになった。こちらでは、勉強と違って、身体が大きいこともあってめきめき上達した。いまでいえば、部活ばかり熱心なスポーツ少年といったところだ。
一方、坂本家では父が隠居して兄の権助が代勤することになった。嘉永4年3月27日のことである。その翌年には祖母の久が亡くなった。73歳という長寿だったが、母に先立たれていたのは気の毒なことであった。
日根野道場に入って5年後の嘉永6年には、19歳で小栗流和術初伝「小栗流和兵法事目録」を伝授された。この免状はいま京都国立博物館に所蔵されている。
そしてこの年に、江戸に剣術修行に出ることになった。現代風にいえば、地方の金持ちの子が、学力受験ではろくな大学に入れないので、スポーツ推薦枠で私立大学に進むことにしたといった感覚だ。
学問が得意なのなら、江戸や京都に多くの高名な塾があったし、大坂の適塾とか日田の咸宜園といったユニークなのもあった。咸宜園は大村益次郎や清浦奎吾らも学んだが、庶民でも受け入れてくれて、江戸時代の日本に存在した唯一のハイスクールといってもよかった。創立者は広瀬淡窓だが、財政的にこの塾を支えた弟の子孫がいまの大分県知事である広瀬勝貞氏のご先祖だ。
だが、なにしろ、私は学問とか勉強は大の苦手である。そこで、江戸で剣術の腕を磨けば、道場を開くのも可能だし、養子のもらい手も多くなるだろうと親も思ったののではないかと思う。
就職するのに、大都会の大学の運動部で活躍すると有利なのは現代と同じだった。
*本稿は「戦国大名 県別国盗り物語 我が故郷の武将にもチャンスがあった!?」 (PHP文庫)「本当は間違いばかりの「戦国史の常識」 (SB新書) と「藩史物語1 薩摩・長州・土佐・佐賀――薩長土肥は真の維新の立役者」より
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