安倍晋三の行住坐臥に映る『岸信介証言録』

「やり残したことは何か」と安倍元総理にいま問えば、「拉致被害者の奪還と憲法改正だ」との答えが返ってくるだろう。その気持ちは痛いほど判る。が、それらは遺志を継ぐ者によってきっといつか実現される。しかし『安倍晋三回想録』は、決して実現されることのない幻になった。

その安倍を「国葬儀」で立派に送った岸田総理は、総理になって一番やりたいことに挙げた人事で失敗し、今や満身創痍。が、元をただせば身から出た錆、「旧統一教会とその関連団体」と「関係を断つ」という、「信教の自由」(憲法第20条)を侵しかねない「出来ない約束」をしたからだ。

筆者は最近、安倍と岸田の違いを「岸信介が岸田の祖父でなかったこと」ではなかろうかと強く思う。それは没後に刊行された安倍の発言や論考を読み、並行してサンフランシスコ平和条約と日米安保条約で日本を独立させた吉田茂の、そしてその安保を改正した岸信介の回想録など読んでの心境だ。

とりわけ『岸信介証言録』(原彬久編 中公文庫)は、安保改正に身命を賭して取り組んだ岸の、政治家としてまた宰相としての心構えや政治信条が横溢する貴重な昭和断面史といって過言でない。

岸信介元首相(左)安倍晋三元首相(右)

「本読み」で鳴る安倍が、祖父の膝で聞いた「アンポハンターイ!」を回想しつつ、岸が日本を更なる独立国にするために取り組んだ政治過程を余すところなく語ったこの『証言録』を擦り切れるほど読み込んだと筆者は想像する。なぜなら大政治家安倍の行住坐臥が「岸そのもの」に思えるからだ。

岸や吉田に関する著書を多く編んだこの「オーラルヒストリーの先駆者」は82年6月、86歳になっていた岸への1年半、20数回に及ぶインタビューを終え、一度たりとも時間を違えず律義に対応した岸がみせた「抜群の記憶力と怜悧な回顧、そして闊達な冗談とたまさかの激しい感情表現」に舌を巻いた。

安倍の記憶力の良さや時に繰りだす軽妙な冗談、そして「こんな人達に負けるわけにはいかない」との発言に見られる「たまさかの激しい感情表現」も祖父ゆずりか。以下、紙幅の許す限り、安倍が範としたと思しき岸の思想や政治信条の一端を『証言録』から拾ってみる。

A級戦犯として巣鴨プリズンに収監された元商工大臣岸信介は、「アメリカに対して戦争責任がある」とは思っていないが、「日本国民に対して、また日本国に対しては責任がある」とし、「開戦に当たって詔書に副署しているし、しかも戦争に敗れたという責任は自分たちにもある」と述べて潔い。

当初は「反米的というか、反マッカーサー的な気持ちが強かった」岸だが、「昭和21年頃、つまり第二次起訴」が「関心の的だった時期」に米ソ冷戦を知って、それが「巣鴨での我々の唯一の頼み」になった。「これが悪くなってくれれば、首を絞められずに済むだろうと思った」からだ。

こうして「アメリカに対する反発よりも・・ソ連に対する反発が強くなっていった」ところへ、シベリア抑留の帰還者から、自ら深く関わった満洲での「ソ連軍の暴虐」を聞いた岸は、「ソ連に対抗するには日本の力だけではどうにもならん、アメリカを利用してやって行く以外に方法はない」と思うに至る。

東条や広田らA級戦犯7人が処刑された48年12月24日に不起訴放免されたが、公職追放の身の岸は、52年4月のサ平和条約発効で追放を解かれ、翌年4月、吉田内閣の「バカヤロー解散」で自由党から出馬する。こうして衆議院議員となった岸は57歳になっていた。

ソ連への対抗に「アメリカを利用」する第一歩は、吉田がサ条約と同時に結んだ安保条約で記された。が、政界復帰した岸は「占領時代の弊害を一切払拭して、新しい日本を作る」べく安保条約と憲法の改正を目指す。まさに第一次安倍内閣が目指した「戦後レジームからの脱却」。

安保や憲法の改正路線の違いから54年に自由党を除名された岸は、鳩山一郎と結成した日本民主党と自由党との「保守合同」を主導する。その理由は、「保守同士」の両党は「政策に余り違いがない」ので選挙演説でも「個人攻撃ばかりになり」「政治の浄化の上からして良くない」からだ。

斯くて自由民主党が56年12月に結成された。その総裁選で石橋湛山に7票差で敗れた岸は、副総理格の外相として入閣するが、57年2月、病に倒れた石橋を継いで総理兼外相となり、安保改正を本格化させる。6月には首脳会談のため訪米、アイゼンハワーとのゴルフで親交を深めた。

岸は安保条約を「相互契約的」なものにしたかった。米軍が内乱鎮圧を支援する「内乱条項」がある一方、「日本を防衛する義務を負うという明確な規定がない」条約だった。岸はダレスに「米国が危険に遭っても日本軍が米国に出動できない憲法をあなた方が作った」と打った。

その訪米に先立って岸は、4月の衆院予算員会では九条を含めた憲法の全面改正に、5月の参院内閣委員会では自衛の範囲での核保有に、それぞれ言及した。攻撃的な核兵器は駄目だが、防衛的な意味での核兵器を持ってはいけないということが憲法にある訳ではないとの考えだった。

安倍の地球儀を俯瞰する外交は夙に有名だが、岸外交は「自由主義国としての立場の堅持」「対米外交の強化」「経済外交の推進」「国内政治に根差す外交」「貿易中心の対中国関係」の五原則を打ち出していた。その「国内政治に根差す外交」についてこう述べる。

本当に強力な政治を行おうとすれば、内政の上にその外交政策が置かれて、内政との関連において組み立てていくことが重要だ。・・外交官というものは一種特殊な立場であって、専門的な傾向を持つのだけれど、それでは駄目なんだ、国内における政治との噛み合い、国内的な根っ子と絡み合わせて外交政策を立案し、施行していかなければ。

政治家を目指していた岸は、我妻栄と一番を競った東大法学部から農商務省に進んだことを保証人だった上山満之進(農商務省次官や台湾総督などを歴任)に事後報告した。その際、なぜ内務省に行かなかったかと叱られた岸は、「これからの政治の実体は経済にあると考えたから」と反論した。

「大衆との触れ合い」は「官僚にはできない」、「政治家でなければ無理だ」と岸は言う。「大衆と対峙するのではなく、中に入って行く」のだが、「政治家は大衆よりも数歩前進しておって、大衆への指導力を持たなければだめだ」、やはり「指導性と見識がなければ、大衆に溶け込んでしまう」と述べる。

また58年秋に発言した「憲法九条廃棄」に野党が反発したことついては、こう自説を開陳する。

私がものを言えば、新聞などがナニすることは承知の上だ。・・マスコミ対策なんてものは考えていなかった。彼らはどうせ左巻きで私の思想とは違うんだから。・・日本の当時の情勢からいって、誰かが一遍は神髄に触れた問題を国民の前にぶつけて、国民をして真剣に考えさせなければいかん、という考えだった。腹の底では何かを持っていて、口先ではいい加減なことをいうような政治家では駄目だ。

岸は民主政治におけるリーダーシップをその要諦として強調した。「大衆に追随し、大衆に引きずり回される政治が民主政治とは思わない」とし、「民衆の二三歩前に立って、民衆を率い民衆と共に歩むのが本当の民主政治のリーダーシップ」だと言う。

この「指導性と見識」そして「リーダーシップ」こそ、しっかり安倍に染みていたものだ。が、東大コンプレックスからか、財務省人脈に操られている感がある上、世論を気にして右顧左眄する岸田には、残念ながら欠けている資質といえまいか。

「国際政治の基本は力と力」と岸は言う。だがそれは「単に軍事力だけでなくて経済力なども含む」し、「約束したことは必ず実行する」とか「自分の狭い利己的な考えではなく、世界の平和と安全という観点から動く」という「国際信義」が大事だとする。

まさに国際社会から高く評価された安倍外交の神髄を見る思いだ。そして安倍は平和安全法制を整備して岸の成した改正安保の実質を深化させ、防衛費を倍増すべきと遺言した。これらは吉田と岸が進めて来た、敗戦の傷深い日本を普通の独立国にする政治の延長線上にある。

最後に極東条項。岸の改正安保の第6条前段は「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許可される」と規定する。安倍はトランプにここを説いた。

改正時、極東の範囲は与野党間や与党内で揉めた。が、岸は「極東」の範囲などは「常識的に考えればいいんだ」、だが共産圏の例えば沿海州などで「何か問題が起こったら極東の範囲外だから知らないと言って逃げるかどうかは別問題」とし、「その時の問題の起こり方いかんによる」と動じなかった。

安倍が唱えた「台湾有事は日本有事」には、「台湾は共産圏ではない」との意思が込められているように思う。が、無念にもそれ確かめる『回想録』がない。