「社会資本主義」への途 ⑩:Less is Moreと『清貧の思想』を比較する

kikkerdirk/iStock

過去4回(連載⑥連載⑦連載⑧連載⑨)を受けて、引き続きヒッケルの「所論」を考えてみる。

(前回:「社会資本主義」への途 ⑨:社会科学からみたLess is Moreの位置

『清貧の思想』との類似

これまで4回にわたり、『資本主義の次の世界』の全貌を紹介しつつ、その問題点についてコメントを重ねてきた。その過程で、30年前の日本でベストセラーになった中野孝次『清貧の思想』(1992=1996)との酷似に気が付いた注1)

ヒッケルが描き出したアニミズムについてはこれまでの連載でその都度紹介してきたが、それと同じ表現が『清貧の思想』全篇を覆っていたからである。いくつか事例を示してみよう。

『清貧の思想』に現れたアニミズム思想

「植物も動物も、花も鳥も、山も川も、すべてが人間と同等な生命の顕現である」(同上:171)。
「人間も樹木も鳥も獣も、生あるものはすべてわが同類である」(同上:177)。
「松が本当に自分の友、自分と同じ存在と感じられる」(同上:182)。
「自分がすべての生命と一体であることを知り、・・・・・・自然と協力するように努める」(同上:195)。
「人間、動物、植物、海洋、星座のあいだには類似があり、同じ根源から発し、互いに親しい調和の中に生きなければならない」(同上:207)。
「鳥や獣や花をわが身の同類として生き生きと共感する」(同上:209)。

『清貧の思想』ではアニミズムという言葉は使われていないが、これら文章の背後にヒッケルが紹介したアニミズムの事例の同質性を感じ取ることは容易である。

『清貧の思想』概観

いくつかの著者紹介によれば、中野は東大文学部独文科を卒業して、1952年から28年間國學院大學で教鞭を執る傍ら、カフカ、ノサック、クロコフなど現代ドイツ文学の翻訳紹介に努めた。1966年に1年間滞欧の経験がある。

『清貧の思想』の問題意識は鮮明であり、方法としては歴史上から周到に選択した数名の「清貧」の暮らしの様相を紹介し、それを基準にして90年代までのバブル期を含めた近現代の日本社会の「大量生産・大量消費の文明」の見直しを主張するというエッセイであった。

元来がドイツ語学・文学者なので資本主義批判などはなく、もっぱら「清貧」を積極的に実践したとされた西行、鴨長明、兼好、本阿弥光悦、芭蕉、池大雅、良寛などが遺した日本史上600年にまたがる「古典」を解説しながら、「清貧」を示す「心の世界を重んじる文化」を工業大国・日本文化に対置した。

所有は悪か

「日本文化の精髄」(同上:4)として「清貧」を位置づけ、歴史上の人物の足跡と作品を通してそれを明らかにする立場から、中野はまず「所有」についての事例を出して、「所有が多ければ多いほど人は心の自由を失う」(同上:31)と断言した。

しかも「人間は生きていくうえで必要欠くべからざるだけの物があればよい」(同上:32)から、「つまらん絵画だの骨董だの、書物だの家具だの」(同上:33)を所有の事例としてあげた。

しかし、これは中野自らが「天に唾する」(What you do will backfire on your someday.)ことであった注2)

なぜなら、28年間大学教師をして、数名の現代ドイツ作家作品の翻訳をしたという経歴からすると、原書や参考書や大型辞典の「所有」は絶対譲れなかったはずだからである。

「所有」は文字通り「人さまざま」(テオプラストス)である。大学教師にとって内外の専門書や日本語外国語を問わず大型辞書の「所有」は不可避であるし、武士には刀が、画家では画材が、ピアニストにはピアノが、家具職人にとっては大工道具が、野球選手ではバットやグローブが、通常の業務ではパソコンが、自動車の運転手はクルマが、そして情報社会や国際社会を生き抜くには国民全員のスマホの「所有」も必然となる注3)

人さまざま

一方で、「大事なのは他人の目ではなく、己の心の律なのだ」(同上:33)といいながら、「欲望」を否定して「魂」を対置する(同上:43)。その延長線上に「現生の名利を求める世界」とは異なる価値観を位置づけ、それを「時代の文明の成熟」(同上:111)と断定した。

しかもたとえば蕪村が生きた江戸時代との比較も行わず、いきなり鎌倉時代末期の『徒然草』を引き、「仕事、人間関係、世間体などの諸縁を断ち切って心安らかにしておく」(同上:129)ことが「生を楽しむ態度」(同上:129)とする。ここにも「天に唾する」ものがあり、「人さまざま」への無理解が認められる。

大学教師をした28年間、授業の準備、教授会、各種委員会、試験監督、採点、地方入試出張、論文指導、ドイツ文学の翻訳、エッセイ執筆など「仕事、人間関係、世間体などの諸縁」におそらくまみれたはずの中野が、読者に対して「諸縁を断ち切る」と言ってもまったく説得的ではない。

「清貧」は美しい思想か

「日本にはかつて清貧という美しい思想があった。所有に対する欲望を最小限制限することで、逆に内的自由を飛躍させるという逆説的な考えがあった」(同上:161)。また、「清貧とはみずからの思想の表現としての最も簡素な生の選択である」(同上:166)も同系の表現になる。

これらが本書で繰り返されたモチーフであり、「スケジュール表」(同上:231)を否定して、「クルマの所有」(同上:245)に疑問を呈して、「クルマの輸出は・・・・・・誇りにならない」(同上:254)まで延々と日本人の経済活動・消費動向の現状批判が続く。

柳田学を経由すると

しかし視野を広げると、例えば『清貧の思想』から60年前の柳田國男では、「貧」は文芸作品だけからの把握で論じるものではなく、「一つの時代相」(柳田、1930=1976下:142)なのであった。それは、「記録文学に残り伝わっているのは、いわゆる清貧に安んじたという変わり者の生活・・・・・・・・・・・・・・・・・が多いが、その他の普通の人とても、それをわれわれほどには気にしなかった」(傍点金子、同上:143)としたところにはっきり出ている。

「つまりはただ馴れているという者が少なくなかった。それほどまた久しい間、家々の悪い生活は続いていた」(同上:143)という文脈からすると、清貧を中野が「日本文化の精髄」(中野、1996:253)と持ち上げる視点と柳田の認識との異同に驚くしかない。

柳田『国語の将来』(1939=1977上)ではその趣旨がさらに鮮明になるので、少し長いが引用しておきたい。

「われわれは国語一つに限らず、すべて文化生活の現在の状態を作り上げた原因は、主として近い過去にあると見ている。その原因のまた原因は、だんだんと一つ前にあるのであろうから、それをも見落とすことはできないが、一足(いっそく)飛びに古いものをとらえて、それと今日とを因果づけることは危(あぶ)ないと思っている」(同上:27)。

『清貧の思想』の登場人物

『清貧の思想』は、柳田のこの指摘通りの「危うさ」が全篇に認められる。ちなみに登場する「かつてこの国に生きていた人たち」は以下の通りである。

古い順に記せば、西行(1118〜1190)、鴨長明(1155〜1216)、兼好(1283?〜1352?)、本阿弥光悦(1558〜1637)、芭蕉(1644〜1694)、蕪村(1716〜1783)、池大雅(1728〜1776)、良寛(1758〜1831)であった注4)

「鴨の長明とか吉田兼好とかいう世捨人は、確かに自分ばかりは達観することができたようであるが、まだその方法を教えてはおかなかった」(柳田、1930=1976上:15)。そのために中野は、これらの古人が書き残した作品から適宜に選択して、解釈しながら、自説をのべた。

この方法では「清貧は、志の高雅と離俗の心根の必然」(中野、前掲書:109)にふさわしい作品や文章を自由に使うことができる。文章を引用・紹介した後は、「と信じている」「かもしれない」「気がする」「と思う」「と思われる」「はずである」「想像する」「違いない」などが乱発される。

どのような「清貧」だったか

しかもこれら8人は作品でも実生活の表面では「清貧」を表現していたが、「本阿弥の家は・・・・・・足利尊氏のころから刀の目利き、研ぎ、磨きを家業として来た家柄」(同上:34)であったし、鴨長明は京都下鴨神社の禰宜の生まれだし、「芭蕉の旅が実際は各地の俳人や豪商に手厚くもてなされての比較的快適な旅であった」(同上:151)ことを考えると、三人ともに金銭面での支えがまったくなかった「清貧」とはいえないだろう。

しかも「貧すれば鈍する」(Poverty dulls the wit.)は正しいので、金銭面での貧困が続くようなライフスタイルであったならば、後世に残る作品は書けなかったに違いない。支えがあってこそ、「文芸に対する態度が日本文化の正道を継いでいる」(同上:149)芭蕉の作品が生まれたのだろう。

これは、「芭蕉なきあとの俳諧という文学の第一人者であり、画家でもあった」(同上:97)蕪村でも同じであったと思われる。

いくら「宗匠」になったのが55歳(1770年)という「異例に遅い年齢」であったとしても、画業そのものは1751年から専心していた(『日本歴史大事典』小学館、2007)のであるから、「物とてもほとんどなく、すべては身一つひっさげていけるほどのもの、旅の道具と異ならぬ物しかない」(中野、前掲書:106)とは到底思えない。

『清貧の思想』に登場しない人々

同じく「清貧」ではありながら、西行の生きた12世紀から良寛が亡くなった19世紀までの間で、中野が取り上げなかった人々の代表は農民である。「数から言うならば国民の八割九割までが、昔ながらの農民であった時代」(柳田、1930=1976上:218)であったが、作品が残されていないことでその事情を手繰れなかったのか。

さらに、「初期の貧窮は今よりははるかに猛烈であったにもかかわらず、それが忍びやすかったまた一つの理由は、簡単にいうならば同勢の多かった」(柳田、1930=1976下:147)もあげられる。

天明の飢饉(1782〜87)や天保の飢饉(1833〜36)では、「買おうと思っても売る米がどこにもないために、小判の袋を背負うて餓死していた者があったという話も伝わっている」(同上:148)。そして「普通にまず死ぬのは貧しい者ときまっていた」(同上:148)。

このような事情を学ぶと、「清貧とは単に貧しいことではない。自然といのちを共にして、万物とともに生きること」(中野、前掲書:228-229)とはとてもいえない。なぜならそのような「清貧」では、「存命の喜び、日々に楽しまざらんや」(『徒然草』第九十三段)が災害によって瞬時に奪われるからである。

「清貧の思想」時代の地震災害

柳田は、「人はその一時の現象をもって与えられたるもの、すなわちお天気の晴雨や地震雷鳴(らいめい)のごとく、人力をもっていかんともすべからざるもの」(柳田、1939=1977上:17)と考えていた。そこで、中野が論じた歴史上の人物が生きた時代の地震災害史を簡略にまとめてみる注5)

1.西行(1118〜1190)、鴨長明(1155〜1216)

【琵琶湖南部地震(1185年8月13日)】
堅田断層などが活動し、余震が3ヶ月続いた(『方丈記』)

2.兼好(1283?〜1352?)

【鎌倉周辺地震(1293年5月27日)】
建長寺は倒壊炎上して由比ヶ浜に多くの死体(『親玄僧正日記』)

3.本阿弥光悦(1558〜1637)

【別府湾地震(1596年9月1日)】
海底の断層が活動して津波が押し寄せた(『柴山勘兵衛記』)

【伏見地震(1596年9月5日)】
伏見城が倒れ、京阪神・淡路地域が大被害(『言経卿記』)

【慶長地震(1605年2月3日)】
揺れが小さく津波だけが押し寄せる「津波地震」(『谷陵記』)

【会津地震(1611年9月27日)】
川底が上昇してせき止め湖ができる(『家世実記』)

【三陸沖地震(1611年12月2日)】
越喜来を津波が襲った(『金銀島探検報告』)

4.芭蕉(1644〜1694)

【内陸地震(1646年6月9日)】
仙台城や白石城の石垣が崩れる(『伊達治家記録』)

【下野街道の北部(1659年4月21日)】
田島宿、塩原の元湯温泉が被害にあう(『家世実記』)

【近江・若狭地震(1662年6月16日)】
山崩れで、町居村・榎村の住民が埋まる(『かなめいし』)

【外所地震(日向)(1662年10月31日)】
宮崎平野の広い範囲が水没(『日向纂記』)

【越後・高田の地震(1666年2月1日)】
犠牲者は千数百人、地震後に越後騒動が発生(『殿中日記』)

【青森県東方沖(1677年4月13日)】
八戸で震害、津波が三陸海岸に押し寄せた(『延宝日記』)

【磐城から房総半島沖(1677年11月4日)】
四倉・江名・小名浜で数百件の家が流された(『玉露叢』)

【日光地震(1683年10月20日)】
五十里宿が水没、せき止め湖の決壊で大洪水(『新古郷案内記』)

5.蕪村(1716〜1783)、池大雅(1728〜1776)

【津軽地震(1766年3月3日)】
津軽半島全体が揺れ、低地で液状化の被害(『平山日記』)

【沖縄地震(1771年4月24日)】
八重山諸島に巨大な津波。死者・不明者1万2千人

6.良寛(1758〜1831)

【沖縄地震(1771年4月24日)】

【普賢岳の前山が大崩壊(1792年5月21日)】
肥後の沿岸には大津波「島原大変肥後迷惑」(『寛政大変記』)

【金沢地震(1799年6月29日)】
金沢城下町で大きな被害(『政隣記』)

【象潟地震(1804年7月10日)】
象潟の島々が隆起して丘の群れとなった(『金浦年代記』)

【男鹿半島で地震(1810年9月25日)】
菅江真澄が日記に記す。八郎潟西岸が1メートル前後隆起

【三条地震(越後)(1828年12月18日)】
三条・燕・見附・長岡などで災禍。顕著な液状化

『方丈記』の地震関連の文章

中野が取り上げた古人のうち、地震関連の文章を残しているのは鴨長明、芭蕉、良寛である。

『方丈記』では、第六段「また、同じころとかよ、おびただしく大地震ふる事-元歴の地震」がある。寒川によれば、これは琵琶湖西岸断層帯の南部を構成する堅田断層の活動(活断層地震)であった(寒川、前掲書:145)。「家(いへ)の内(うち)にをれば、忽(たちま)ちに拉(ひし)げなんとす。走(はし)り出づれば、地割(ちわ)れ裂(さ)く」注6)

この被害者の大半は琵琶湖西岸ではもとより、「都のほとり」の人々もまた含まれるし、「清貧」というよりも「貧しさ」では同じであっただろう。

芭蕉の句

芭蕉の時代の「近江・若狭地震」(1662年)でも、町居村人口約300人のうち37人しか生き残らず、琵琶湖西岸の北部にある高島藩の大溝では、300軒近い町屋で無事だったのは10軒だけであった(寒川、前掲書:147)。ここでは農村だけではなく、町屋の人々も被害者となっている。

この両者はいわゆる柳田のいう「常民」に含まれるだろうが、「数億の常民の死は何らのモニュメントも残さない」(柳田、1934=1990:304)のは事実である。

芭蕉がまだ桃青と称していた時代に刊行された『江戸三吟』(1678年)では、

  • 「大地震 つづいて竜や のぼるらん」 似春
  • 「長十丈の 鯰なりけり」 桃青(芭蕉)

と詠んでいる(寒川、前掲書:188)。

三条地震(1828年)での良寛の短歌

地震後に長岡から三条に足を運んだ良寛は焼け野原になった光景を見て、「かくかくに とまらぬものは涙なり 人の見る目もしのぶばかりに」と詠んだ(同上:230)。

良寛の評価と解釈

『清貧の思想』で中野が一番評価した生き方は、良寛の「僧(そう)は清貧(せいひん)を可とす可(べ)し」(中野、前掲書:59)、あるいは「常に吾が道の孤なるを嘆ぜり」(同上:60)であっただろう。

確かに「清貧」を全うした人生ではあっただろうが、「貞心尼は良寛の晩年の生を彩(いろど)る女性」(同上:82)としか「親密な他者」を描かなかった。この42歳年下の「弟子」との交流がどれほど晩年の暮らしの全てをささえたか。

「清貧とはみずからの思想の表現としての最も簡素な生の選択」(同上:166)ではあっても、このような「親密な他者」が存るのと居ないのでは、その「清貧」の姿も異なるのではないか。

登場しない人々(続き)

また中野が対象とした時代でも、「非農業民、商工民、流通業者等の都市的世界を背景とした思想、農業よりも商工業に積極的な価値を求める思潮の系譜」(網野、1996=2001:19)が存在した注7)

網野はその人々を「遊手浮食の輩」(同上:130)と命名して、遍歴する「芸能民」が代表的な存在であり、これこそが「都市民の源流」だと指摘した。そして、「都市的な場は・・・・・・無縁の地であった。宿・市の立てられた河原や荒野、関渡津泊は本来の意味で無縁の地であり、寺社の門前は無縁の観念の貫徹した地」(同上:130)であった。

課題はありながらも、網野が最終的にのべたように、「『百姓=農民』、農業社会としての中世というこの見方の大前提が崩れ、百姓の中に海民、山民をはじめ商工民、芸能民がかなり多く含まれ、廻船業、商業、金融業、そして手工業に携わる専業的な職能民」(同上:404)が顕在化していた時代が姿を現していた。

その時代の中で、金銭的に支えられながらライフスタイルとしての「清貧」を実践していた文人の作品だけを拾い上げて、「われわれの祖先は自然と同化し、自然の中にあってその幽気にひたることを好んだ」(中野、前掲書:174)と総括することはもはやできないだろう。

中野の方法と問題点

中野は、「日本が一大産業社会になったのは事実でしょうが、それがわれわれ生活者に『豊かさ』の実感を与えない以上、どこかが根本から構造的に狂っている」(同上:240)と診断して、「この古人の風を偲び、思想と生き方を学ぶことによってそれが現代文明を批判する力となると信じて」(同上:232)、「清貧の思想」を抽出して、それを「未来の新しい生の原理」と位置づけた(同上:231)。

大学教師であり翻訳家・作家として書物の「所有」には触れることなく、「所有を必要最小限にすることが精神の活動を自由にする」(同上:166)と言い続けて、所有を繰り返し否定した。

「日本人は今とかく金銭欲、物欲、所有欲の権化のように見られがちでありますけれども、日本文化はもともとそういう欲望とはまったく無縁な、むしろそれらの欲望の否定の上に成立って来た」(同上:232)と中野に総括されれば、疑問を提示せざるを得なくなる。

日本文化

なぜなら、中野が持ち上げてきた「清貧の思想」はその一分野に過ぎないからである。少しでも日本文学史を覗いた者なら知っているように、「源氏を主人公とする物語が遠く古代以来の日本の物語の主流であった」(西村、1996=2005:114)もまた理解できるからである。

その他にも無常観を根底に持つ『平家物語』(13世紀中ごろ)に象徴される軍記物の伝統、江戸期の商工民の生き生きした「所有欲」の姿を描いた西鶴の『日本永大蔵』(1688)や『世間胸算用』などの作品も「日本文化」の一翼を占めるだろう。

たとえば「上方の都市を中心とした小商品生産は、一方の極に「慈悲」のごとき資本家的倫理と、他方の極に庶民大衆の新しい寛容な倫理的連帯感を生み出しており、西鶴の町人物はこれを見事に反映していた」(高尾、2006:137)。このような経済的エートスは、令和の今日までとりわけ日本の中小企業では連綿と続いてきたと考えられる注8)

したがって、「古人に勝手なことを言わせると、文芸から人生を経験しようなどとするのは慾が深すぎる」(柳田、1946=1976:204)も納得できる。ではどのような方法が考えられるか。

雑種文化からの出発

柳田は『民間伝承論』で、「社会事象を全的に見て、文化複合・・・・のあることは否まれぬところである」(傍点金子、柳田、1934=199:315)とした。

本連載⑤で紹介した加藤は「日本の文化は根本から雑種である」(加藤、1956=1974:44)として、「ほんとうの問題は、文化の雑種性そのものに積極的な意味をみとめ、それをそのまま生かしてゆくときにどういう可能性があるか」(同上:44)とのべたことがある。

この観点からすると、中野が行った「清貧」だけの作品の選択だけでは、日本人も日本文化の理解も十分とはいえない。ましてやそれを現代日本人と日本社会に対置して、経済、消費、所有などの行き過ぎを糺す材料にはなりえない。

もう一つは、語学・文学者の中野の限界だろうが、「清貧」のライフスタイルを可能とする経済社会システムの設計が出来なかったことがあげられる。そして、この連載で紹介しつつコメントしてきたヒッケルのアニミズムを原理とした「次の世界」とも、この指摘は重なり合う。

ベストセラーの宿命

どちらも時代を画する大ベストセラーになりながら、理念、思想、生き方レベルにとどまったために、日本の社会システム変革の導きにはなりえなかった。

中野が横浜市にヒッケルがロンドンに居住しておきながら、自らの今日的なライフスタイルとは無縁の中世「清貧の思想」やアニミズムを紹介した事実により、読者の大半はいわば知識としてそのような理念、思想、生き方もあると理解しただけで、いわば単なる「物知り」レベルに止まったのではないか。

さらに中野の準拠点は日本中世近世の事例であり、それを昭和後期から平成の動向に対置したという意味で、いわば時空間の相違を無視した方法を採ったことになる。

同様にヒッケルも時間的には同一だが、空間的にはGNはもとよりGSでも該当しにくい少数民族の事例を持ち出して、イギリスを始めとするG7の動態と比較して「次の世界」を示そうとした。

研究の基本姿勢

人文・社会・自然科学に医歯薬の科学を加えても、対象の選定と方法の選択は研究の自由の根幹にある。問題はその成果の位置づけ方である。

とりわけ人文・社会系の科学では、結論の提示の仕方が重要である。終戦後の1950年代から60年代にかけて、日本の社会科学では2つの社会目標が併置される状況が続いていた。一つは脱封建制を求めたいわゆる近代化論であり、それはエートス論や人間類型論へと展開された。

もう一つは同じく脱封建制を主張して、その行く先がソ連に象徴される社会主義(共産主義)社会にあり、そこへのあこがれと期待が表明された。

いずれも日本の高度成長期(1955〜1972)が終わった時代以降では、「第三の波」としての情報化や「脱工業化社会」に取って代わられ、その勢いは消滅したし、日本社会での影響も薄れていった。

2冊から学べること

ヒッケルを4回取り上げ、そしてそれを「清貧の思想」と比較すると、

  1. そのどちらもが時空間の相違を無視した時代比較であった
  2. 時代に対置するための社会構造(仕組み)への配慮に全く欠けていた
  3. 中野であれば取り上げた「清貧の生き方」が、ヒッケルならば準拠したアチュアル族とチェウォン族の事例が、それぞれ現代の大半をしめる人々とは無縁であり、知識としては受け入れられても、現実の世界を変える力にはならなかった
  4. 社会の比較には人口や諸制度を含むスケールへの配慮が求められるが、それが全くなかった
  5. 自らのライフスタイルとは異質の対象でもそれは絶対的に研究の自由はあるが、その成果をもとに比較して、自らのライフスタイルを維持しながら同時代の社会を断罪した方法には疑問が残る

などにまとめられる。

「社会資本主義への途」の課題

拙著『社会資本主義』を準備する過程では、若い頃の記憶として、(イギリスの資本主義発達史を標準にすると)「歪み」「ひずみ」「後れ」のあったことは日本に固有の現象ではない。

日本に固有なのは、それがあったことではなく、どうあったかの具体的内容である」(加藤、1976:15)。そして「実は、われわれが国民として何を欲するか明白でない」(同上:17)があった。

拙著でこれらはいわば隠し味であったが、その文脈から私は、「資本主義の終焉」の先の議論でも「脱成長」にしても、「社会システムの適応能力」という概念を通して、来るべき「社会資本主義」を模索したいと考えるようになった。

なぜなら、新しい資本主義として現代日本を見てみると、「社会的共通資本」と治山治水は後回しにされ、国民が持つ「社会関係資本」への着眼はなく、一人一人の「人間文化資本」を育てるという発想にも乏しいと思われらからである。

そこで具体的内容としてはこれら三資本の融合を理念とし、時代背景としての「人口変容」と「脱炭素」を論じつつ、経済社会システムの「適応能力上昇」を維持して、世代間協力と社会移動が可能な開放型社会づくりを創造するというパラダイムへと到達したことになる。

ある構想を新しい名前のもとに現実化させる

このような経緯により、新しく提起した「社会資本主義」は、過去を基盤としつつも、むしろ現在流行している「資本主義の終焉」論から未来への展望が柱となる。「未来像について考えることは、ある構想の仕方を新しい名前のもとに復活させる」(アーリ、2016=2019:25)から、この用語を作り上げたことにもなるであろう。

10回にわたる本連載について、友人・知人を始めとする方々から個人的なご意見をたくさんいただけたことに深甚の謝意を表する次第である。

注1)1992年版は草思社刊行のハードカバー、1996年版は文藝春秋からの文庫版であり、以下の引用は文庫版による。

注2)ことわざのもつ民衆知と学問による学問知との関連については金子(2020)で触れている。

注3)北九州市の松本清張記念館や東大阪市の司馬遼太郎記念館に行くと、その圧倒的な作品量を支えた膨大な蔵書に出会う。

注4)西行から良寛まで600年を超える時代の幅がある。西行の『山家集』は1188年にまとめられ、良寛の没後「一種不思議な聖愛」(相馬御風の言)で結ばれたいた貞心尼が『はちすの露』を完成した1835年までが包摂されている。なお、明治の正岡子規も登場するが、いわば脇役であった。

注5)これは寒川が地震考古学の立場から整理した「日本列島を襲った主な大地震」年表による(寒川、2011:254-259)。

注6)原文読み下しと評釈は安良岡(1980:98)に従う。

注7)網野の初版は1996年1月刊行であり、中野が文庫化した初版は1996年11月であった。

注8)中小企業は、わが国421万企業のうち99.7%を占める。 従業者数・付加価値額(製造業)においてもそれぞれ7割、5割以上を占める。 とりわけ、小規模企業は我が国全企業数の9割弱を、また雇用の1/4をそれぞれ占める(中小企業庁HP)。

【参照文献】

  • 網野善彦,1996=2001,『日本中世都市の世界』筑摩書房.
  • Hickel,J.,2020,Less is More:How Degrowth will Save the World. Cornerstone (=2023 野中香方子訳 『資本主義の次に来る世界』 東洋経済新報社).
  • 金子勇,2020,『ことわざ比較の文化社会学』北海道大学出版会.
  • 金子勇,2023a,『社会資本主義』ミネルヴァ書房.
  • 金子勇,2023b,「『社会資本主義』への途 ②:社会的共通資本」アゴラ言論プラットフォーム6月11日.
  • 金子勇,2023c,「『社会資本主義』への途 ③:社会関係資本と文化資本」アゴラ言論プラットフォーム6月15日.
  • 加藤周一,1956=1974,『雑種文化』講談社.
  • 加藤周一,1976,『日本人とは何か』講談社.
  • 兼好・今泉忠義訳注,1957,『改訂 徒然草』角川書店
  • 中野孝次,1992=1996,『清貧の思想』文藝春秋.
  • 西村亨1996=2005,『知られざる源氏物語』講談社.
  • 寒川旭,2011,『日本人はどんな大地震を経験してきたのか』平凡社.
  • 小学館,2007,『日本歴史大事典』小学館.
  • 高尾一彦,2006,『近世の庶民文化』岩波書店.
  • テオプラストス,BC319/318=1960=1982,森進一訳『人さまざま』岩波書店.
  • Urry,J.,2016,What is the Future? Polity Press Ltd.(=2019 吉原直樹ほか訳『<未来像>の未来』作品社)
  • 安良岡康作,1980,『方丈記 全訳注』講談社.
  • 柳田國男,1930=1976,『明治大正史世相篇』(上下)講談社.
  • 柳田國男,1934=1990,「民間伝承論」『柳田國男全集 28』筑摩書房:245-506.
  • 柳田國男,1939=1977,『国語の将来』(上下)講談社.
  • 柳田國男,1946=1976,『口承文芸史考』講談社.
  • https://www.chusho.meti.go.jp/koukai/chousa/chushoKigyouZentai9wari.pdf

【関連記事】
「社会資本主義」への途 ①:新しい資本主義のすがた
「社会資本主義」への途 ②:社会的共通資本
「社会資本主義」への途 ③:社会関係資本と文化資本
「社会資本主義」への途 ④:人口反転のラストチャンス
「社会資本主義」への途 ⑤:「国民生活基礎調査」からみた『骨太の方針』
「社会資本主義」への途 ⑥:“Less is more.”は可能か?
「社会資本主義」への途 ⑦:ヒッケルの「ポスト資本主義への道」への疑問
「社会資本主義」への途 ⑧:「資本主義を理性によって精査する」方法の問題
「社会資本主義」への途 ⑨:社会科学からみたLess is Moreの位置