高田保馬生家が解体されていた

飲水思源

中国語に「飲水思源」という言葉があり、日本でも「四字熟語」として定着している(竹田、2013:71)。水を飲むときには、その水源にまで思いを馳せることであり、物事の根本を忘れないことのたとえでもある。

この「飲水思源」思想は社会学でも重要だと考えて、2年前に吉原直樹東北大学名誉教授と二人で「シリーズ 現代社会学の継承と発展」(全6巻)を企画して、現在ミネルヴァ書房から3冊が刊行されている。残りも3巻も年内には完結見込みである。

これは『都市とモビリティーズ』、『福祉と協働』、『情報とメディア』、『世代と人口』、『環境と運動』、『ジェンダーと平等』の6巻から構成されていて、現代社会学の主要なテーマがほぼ圧縮されて収まっている。特徴的なことは全6巻すべてに「階層と移動」という補助線を用いて、格差や不公平・不平等をしっかり論じた点にある。

高田保馬が「飲水思源」

私個人にとっての「飲水思源」は高田保馬の社会学であるが、何よりも著作数が膨大であり、しかも経済学書が同じくらい積み上げられるため、さらに歌集が3冊、時論が5冊ほどあることにより、なかなか本格的な研究に取り掛かれないまま今日に至った。

かろうじて、「生誕120周年」の2003年に数名の先学と友人の協力をいただき、『高田保馬リカバリー』の刊行と同時に、『社会学概論』、『勢力論』、『階級及第三史観』をミネルヴァ書房から復刻していただいたのみであった。

それから20年が経過して「没後50周年」の2022年を記念して、高田のふるさとの佐賀新聞社から『高田保馬自伝「私の追憶」』が出された。それを受け、昨年暮れから「生誕140周年」記念として、私は高田の3冊の歌集についての歌論をアゴラ言論プラットフォームで7回連載した(2023年12月22日~2024年3月3日)。しかし、今もなお厖大な社会学と経済学には依然として手が届かないままである。

生家が解体されていた

歌論の連載が終ってから、3月下旬にいくつかの所用があり、福岡と佐賀に出かけた。少し時間の余裕が出来たので、佐賀県小城市三日月町遠江に残っている(と思っていた)高田保馬生家を訪ねた。ところが、1925年秋に高田自らが新築した生家は解体されて、更地になっていたのである。写真1は解体される20年前の姿である。

同じ敷地におられる高田生家の管理人家族は、高田本人からすると長兄の孫の家系になる。5年ぶりの生家訪問でもあったので、生家解体についてのお話を聞いたところ、生家は100年前の建築で、かなり前から建物の痛みが激しく、昨年6月に壊したということであった。生家に残されていた書籍や掛け軸その他の資料は、小城市教育委員会文化課が所管している「小城市立歴史資料館」に寄贈されて、現在は整理中ということであった。そのあとで歴史資料館にも出かけていき、一部資料の展示を拝見した。

写真1 高田保馬生家の全景
出典:高田保馬博士顕彰会『高田保馬』同顕彰会、2004より転載

年表に即して言えば、1921年6月から24年2月までの東京商大教授を病気で辞任してふるさとに帰り、しばらく静養していた時に、1925年に開学が決まった九州帝国大学の教授に就任した頃に高田の意向により建造された建築物である。5年間はその生家から福岡箱崎の九大まで片道3時間かけての通勤をしていた。

「三日月村から九大法学部(金子注 実際は法文学部)までは時間にしてざっと三時間、博多駅と久保田駅の間だけでも二時間はかかる」(『高田保馬自伝「私の追憶」』:181)。

「博多に出勤する日は夜10時、駅については多くは徒歩。暗き野道をわが家の灯の方へと急いだ」(同上:161)。

このような思い出多き生家でもあった。

生家での暮らし

やがて1929年4月に河上肇「経済原論」の後任として京都帝国大学教授になるが、同時に九大教授も兼任していたので、京大教授専任となった1934年12月までは半年間は京都住まいであり、残りの半年間はこの生家で暮らした。

この時代の5年間と、さらに終戦後の不遇な「教員不適格」の判定を受けた時代(1946年~1951年)の約6年間をはじめ、四季折々に生家に帰られた際に、使われた二階の書斎の外観は写真2の通りである。ここで経済学の大著『経済学新講』(5冊)岩波書店(1929-1932)が執筆されたし、『階級及第三史観 改訂版』関書院(1948)、『改訂社会学概論』岩波書店(1950)、『社会科学通論』有斐閣(1950)が執筆された。

写真2 生家の玄関と二階の書斎
(注)金子撮影(2020年1月)

写真3は左側の正門を中心にした更地の様相である。写真1でいえば左側の門柱を中心とした構図であり、そのまえに小城市教育委員会が置いた「ウォーキング 偉人コース 高田保馬博士生家」と記載されている。また、写真4は更地の全景である。生家が解体されたので、今後は「生家跡」になるのだろうか。

写真3 正門からの更地の風景
(注)金子撮影(2024年3月)

写真4 更地の全景
(注)金子撮影(2024年3月)

写真4は更地の全景であり、写真1の二階建ての建物が立っていたところである。その左側が庭になるが、樹木は一切残っていなかった。ただ、小城市教育委員会が平成21年(2009年)に建てた高田保馬の簡単な紹介が記載されている「説明版」(写真5)はそのままであり、その横に高田保馬生誕の石碑(写真6)も同じく残されていた。

写真5 高田保馬説明版
(注)金子撮影(2024年3月)

写真6 高田保馬生誕の石碑
(注)金子撮影(2024年3月)

古川康・野田聖子・金子勇「少子化を真面目に考える座談会」

『高田保馬リカバリー』(2003)を刊行して、少子化対策の論文や著書を刊行していたころに知り合った当時の佐賀県知事古川康氏、衆議院議員で『だれが未来を奪うのかー少子化と闘う』(講談社、2005)を出された野田聖子氏との鼎談を行ったことがある(古川康・野田聖子・金子勇「少子化を真面目に考える座談会」『読売ウィ-クリー』2007.3.4)。

その鼎談後でも、そして佐賀県知事から衆議院議員になられた古川氏には生家保存を何回かお願いしたことがあったが、いずれも「民有地」なので県や国がなかなか手を出せないという回答であった。いろいろ厄介な事を乗り越えなくてはならなかったのだろう。

小城市市民図書館三日月館と小城市歴史資料館に資料・史料が保管されている

結果的に生家が解体されてしまい、高田の大きなメモリアルが無くなってしまった。ただ幸いなことに生家に保存されていた資料の大半が小城市歴史資料館に移されていて、100冊の書籍も小城市市民図書館三日月館の「高田保馬コーナー」に保管されている。

私も20年前の『高田保馬リカバリー』を小城市歴史資料館に献呈して、市民図書館三日月館と合わせて、3月に完結したアゴラ連載7回の「高田保馬の『感性』と『理性』」のコピーをささやかな高田保馬研究資料として差し上げてきた。

この後、膨大な社会学と経済学の世界にどう入り込むか、試行錯誤が続いている。

【参照文献】

  • 古川康・野田聖子・金子勇,2007,「少子化を真面目に考える座談会」『読売ウィ-クリー』読売新聞社 3月4日号:88-92.
  • 金子勇編,2003,『高田保馬リカバリー』ミネルヴァ書房.
  • 竹田晃,2013,『四字熟語成句辞典』講談社.
  • 吉野浩司・牧野邦昭編,2022,『高田保馬自伝「私の追憶」』佐賀新聞社.

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