本土復帰後の沖縄知事選挙で何が争われてきたか

『誤解だらけの沖縄と領土問題(増補改訂版)』(清談社)からの抜粋。今回は本土復帰から辺野古が焦点になるまでを、歴代の知事選挙を主題に語る。

復帰と屋良・平良県政

沖縄返還は、ベトナム戦争の時代だったからかなり難しかった。しかし、佐藤栄作首相は繊維輸出の規制などを餌に米国を説得した。

佐藤栄作 Wikipediaより

また、基地の廃止はベトナム戦争中であり現実性がなかったので、革新勢力が抗議したもののそれほど現実的な議論にならず、「核抜き本土並み」かが争点となった。

1969年に返還の約束がされ、71年に返還協定締結、返還されたのは72年の5月である。

佐藤首相の行った密約などを批判する人がいるのは当然だが、それなしで、あの時期に返還が可能だったとは思わない。

また、1972年5月の本土復帰の前の2月にはニクソンが北京を訪問している。もたもたしていたら、北京が何らかの横やりを入れた可能性もないわけでなく、佐藤首相の「拙速」と「ごまかし」も総合的に見れば賢明だったと思う。

いよいよ本土復帰することになったあと、初代の知事を選ぶ選挙が、半年繰り上げて行われた。自民党は元主席の大田政作を立てたが、現職の屋良朝苗の圧倒的な人気の前には勝敗は初めから見えていた。

屋良朝苗 Wikipediaより

もともと、高齢だった屋良は3選目への立候補を固辞し、教員出身の平良幸市(1976~78)が立候補した。これに対して、自民党は社会大衆党代議士だったものの本土の民社党に接近していた安里積千代を支援したが、4万票以上の差で平良が圧勝した。

沖縄海洋博が開かれたのは、屋良県政の末期だが、閉幕後は沖縄経済が深刻な不況に陥った。そんななかで、平良が体調不良のため任期途中で辞任した。

西銘県政と保守への転換

革新側は県議の知花英夫を立て、保守側は代議士になっていた西銘順治(1978~90)を再擁立した。経済の現実への不安、それに、西銘が平良知事への敬愛を日ごろから口にしていたことも好感を持たれ、勝利した。

西銘順治 Wikipediaより

本土では田中角栄が首相の時期だった。西銘はすぐれた行政・政治能力を背景に沖縄のドンとして君臨し、2選目には革新のエースといわれた喜屋武真栄、全盛期といわれた3選目には東京大学出身の弁護士である金城睦に大差で勝利した。

西銘県政のもとで、沖縄は格差是正にある程度は成功したが、西銘の自力でもやっていけるという矜持は、普通の地方の県として扱われることにつながり、政府の沖縄問題への関心が低下する結果ももたらした。

私自身は、この時代に沖縄総合事務局通商産業部のナンバー2として出向していたのだが、大胆な発想に基づく沖縄を特別扱いする政策はいくら提案しても通る雰囲気ではなかった。

大田・稲嶺県政と沖縄振興

西銘王国は衆議院選挙に長男を立てたことから自民党に内紛が起き、革新派の大物である琉球大学教授の大田昌秀(1990~98)が、3万票の差で勝利した。再選時は、村山連立政権のころであり、県内でもJAが大田支持を打ち出すなどの動きがあった。保守側は翁長助裕(元副知事)を立てたが、11万票という記録的な大差で大田が再選された。

大田昌秀 NHKアーカイブスより

大田知事は、政府筋からも現実主義的な交渉相手として評価されていた自治労出身の吉元政矩副知事の再任が、強硬な革新派が自民党に同調した結果、県議会によって否決されたため弱体化した。

そこへ、参議院議員だった父を持つ財界人の稲嶺恵一(1998~2006)が保守の切り札として登場した。稲嶺は過去最悪の県内失業率を表す「9.2%」をポスターに掲げるなど大田の経済政策を糾弾し、4万票近い差をつけて勝利した。

この大田から稲嶺の時期にかけて、政府は小渕首相や野中広務官房長官の沖縄に対する特別の思い入れを背景に、積極的な振興策を展開し、成果も着々と出てきた。1995年の米兵少女暴行事件で島ぐるみといわれる抗議行動がわき上がったあとの混乱を、地位協定の見直し、沖縄振興策の強化、サミットの開催などで乗り切り、県民の政府への信頼も高まり、稲嶺再選時には、革新は分裂選挙になった。ちなみに、この稲嶺時代に福建省では習近平がトップで、稲嶺知事とのあいだで交流があった。

仲井眞県政と辺野古問題

その4年後の選挙では、保守は仲井眞弘多(2006~)を擁立した。仲井眞は西銘時代から将来の知事と期待され、満を持しての登場だった。また、華人系の名門の出であり、父親は文化人として著名だった。

仲井眞弘多 Wikipediaより

革新はバスガイドとして戦跡観光の案内をしていたことから平和運動に入った参議院議員の糸数慶子を統一候補としたが、3万票という予想以上の差で仲井眞の勝利となった。糸数は基地問題を訴えたのだが、知事が決断してもどうなるものでもないこの問題より、仲井眞の訴える経済問題こそ争点だと県民は考えたのだった。また、仲井眞の風格も政府に立ち向かうためにはプラスだといわれた。

基地問題については、市街地に近い海兵隊普天間基地の移転問題が最大の難問だったが、名護市辺野古への移転は、県内での移転しかないとすればネガティブな要素が比較的少なく、現実的だという諦めも県民の間にあった。批判はいくらでもできるし、さまざまな利権もからんではいるが、ガラス細工のように組み立てられた妥協案だった。

ところが、2009年の総選挙で勝利した鳩山由紀夫首相は、総選挙のときに「最低県外」と言ってしまった。こうなると、仲井眞知事も県内でもやむなしとはいえなくなる。そこで、2010年の知事選挙では仲井眞も県外を公約に当選する。

鳩山由紀夫 Wikipediaより

しかし、政府の方は徳之島案などというのを出したものの地元を説得できなかったり、アメリカからも話が違うと怒られ、辺野古に逆戻りする。鳩山首相が何の根回しも見通しもなく言った話だから仕方ない。

そこで、仲井眞は悩んだ結果、県として建設を阻止できる事実上、唯一の権限である公有水面埋め立ての許可を出して、一言でいえば、協力も賛成もできないが、政府のお手並み拝見といった立場に立ったのだ。

しかし、仲井眞のこの現実策は評価されず、人気低迷のまま2014年の知事選挙になった。


誤解だらけの沖縄と領土問題(増補改訂版)(清談社)


誤解だらけの皇位継承の真実 (清談社)

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