ウォーク(Woke)という用語をご存じだろうか。もともと直訳では「目覚めた」という意味だが、今日では「未来志向の社会正義のビジョンをラディカルに追求している」といった語義で用いる。急進的なエコロジー、フェミニズム、ポリティカル・コレクトネスなどに代表されるその思想内容を、Wokeismという名詞で呼ぶこともある。
このウォークないしウォーキズムには、なかなか適切な日本語訳がない。しかし近日、「お目覚め主義」と訳すのが最も的確かもしれないと、ふと感じることが増えた。
遺憾なことだが、いわばお目覚めを迎えたばかりのお子様と同様に、「かつて実際には何があって、その際自分はいかなる態度をとったか」を一顧だにせず、いま目の前にある不快な状況(文字どおりのお子様の場合は、たとえば空腹)をなんとかできればよいとばかりに、その瞬間ごとに都合のよい対応を繰り返すだけのウォーキズムの担い手が、あまりにも多いからである。
たとえば2021年4月4日公開の「オープンレター 女性差別的な文化を脱するために」に当初は呼びかけ人として名を連ねながら、10月31日に外部への説明なくその名を削り、隠されていた離脱の事実を11月27日のアゴラで私に指摘された礪波亜希氏(筑波大学准教授)は、本年9月1日に以下のようにツイートしている。
「與那覇潤氏のユニークな自説」という表現はおそらく、與那覇が書くオープンレターについての論説は「広く認められた客観的な事実に基づく認識」ではないぞ、と言外に仄めかしたいのであろう。どうやらこの方、昨秋に私に批判された際にはTwitterに鍵をかけ、かつ12月9日には「精神的苦痛を感じ、身体的な影響も出ております(詳細はご連絡いただければご説明します。)」と添えて、以下のように私に連絡してきた過去をお忘れのようだ(元の記事は現在削除されているが、容易に復元できる)。
私としては礪波氏による拙稿の評価に興味はないが、見落とせないのは彼女が関連するツイート(写真保存済)において、池内恵氏(東京大学教授)を名指しで「虚偽をばらまかれる」「虚偽情報をばらまいても良い」云々と誹謗していることだ。曖昧な叙述に終始し真意は判然としないが、池内氏がオープンレターの呼びかけ人の一部は「(批判対象である呉座勇一氏の)勤め先に抗議することをSNS上で公言していた」と指摘したことが、虚偽情報の流布だと主張しているようにも読める。
上記の池内氏の指摘は、私が昨年12月4日のアゴラにてリンクとスクリーンショットを示して論証したとおり、端的に事実である(しかも、「公言していた」者の一人は礪波氏自身だ)。礪波氏は、その際には同記事の掲載直後にTwitterに鍵をかけて姿をくらましたのだが、いまや新たにお目覚めになったので、そんな過去は忘れたしもう関係ないと仰りたいように見える。
やはり昨年12月7日のアゴラにて、歴史学のテクニックを過去の捏造へと悪用している点を指摘され、直後に私に対する差別発言(病歴の揶揄)について謝罪した嶋理人氏(熊本学園大学講師)も、「お目覚め」の達人である。オープンレターの呼びかけ人が誰なのかも把握しないまま発言を続けて炎上した彼が、今度は2022年4月刊の『情況』同年春号への寄稿で自身の用いた「生意気な若い女」(同誌86頁)という表現の存在を忘れていたことから、近日もちょっとした騒ぎが起きた。
嶋氏の文章にいわく、インターネット上では北村紗衣氏(武蔵大学准教授)を「生意気な若い女」と見なし、彼女に「嫉妬」して攻撃する人が多いのだという。しかし名誉毀損の有無をめぐって現状では唯一、北村氏と直接の訴訟関係にある山内雁琳氏はその『情況』誌によれば1990年生で、83年生の北村氏の方が7つ年上だ。ちなみに「北村紗衣さんはきっと『生意気な若い女』に見えたのだろう」とする想像に基づき同誌に寄稿した嶋氏は、東京大学の年次から計算すると北村氏の4つ上にあたる。
以前のことをよくお忘れになる点では、その北村紗衣氏も人後に落ちない。池内恵氏との論争(経緯は前回の拙稿を参照)に続き、細谷雄一氏(慶応義塾大学教授)を批判する最中に発された以下のツイートには、思わず目を疑った。
2021年3月に起こった呉座勇一氏の炎上が過熱した契機の一つは、「他人のいいね欄なんか興味ない」北村氏が、Twitter上で謝罪の意向を示した後の呉座氏の「いいね欄」に文筆家の御田寺圭氏の発言が(引用の形で)含まれることを問題視し、「それで、私に謝る、と?」と発言したことだ(同月20日。写真保存済)。その結果「呉座氏は謝ったとしても口だけでは?」と疑う雰囲気が作られ、大炎上をもたらすこととなった。
呉座氏が謝罪を経てTwitterの鍵を外した後には、150万人超のフォロワーを有する津田大介氏(活動家)が呉座氏の「いいね欄」を遡り、津田氏が問題視する発言をまとめて拡散する事態も起きた(昨年12月13日の拙稿を参照)。「他人のいいね欄なんか興味ない」北村氏は、この津田氏らと連名でオープンレターを発表し、そして津田氏が作成した「呉座氏のいいね欄」のリストは、先の礪波亜希氏によって本年9月1日にも再利用されている。
率直に私自身、いい加減虚しさを感じているのだが、お目覚め後のお子様のように「その瞬間だけ」を生き続ける人には、いかに過去のファクトを提示しようと意味がないのかもしれない。実際、本年8月24日に「他人のいいね欄なんか興味ない」と表明した北村氏は、わずか1週間後の同月31日には、以下の通りこのツイートをRTで拡散している。
文字どおりのお子様が目を覚まして大声をあげだしたなら、何らかの配慮を示すのは周囲にいる大人の責務であろう。もし「ご飯は寝る前にあげたはずだ」「満足して寝たことと矛盾する」などと言って放置するなら、ネグレクト(育児放棄)として批判されてもやむを得ない。
しかし、とうに成人済みの学者たちが自身の「お目覚め」の時点のみを根拠に、過去との一貫性など知らぬ顔で他者への批判を展開するなら、その都度ごとに聞こえのよい発言を重ねては遁走する「言い逃げ屋」ばかりが育ってしまうだろう。そろそろ私たちの社会の課題として、こうした大きなお目覚め主義者との向きあい方を考えてゆく時であるように思う。
■
與那覇 潤
評論家。歴史学者時代の代表作に『中国化する日本』(2011年。現在は文春文庫)、『平成史-昨日の世界のすべて』(2021年、文藝春秋)。自身の闘病体験から、大学や学界の機能不全の理由を探った『知性は死なない』(原著2018年)の増補文庫版が21年11月に発売された。最新刊に『過剰可視化社会』(PHP新書、2022年5月)、『
【関連記事】
・「言い逃げ」的なネット文化を脱するために:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える①
・「言い逃げ」的なネット文化を脱するために:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える②
・嶋理人さんへの警鐘:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える③
・専門家を名乗る学者が起こす「専門禍」:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える④
・北村紗衣氏の「事実誤認」についての疑問:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える⑤
・北村紗衣氏の「指摘」に応える:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える⑥
・SNS言論人の典型北村紗衣氏を論ず:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える⑦
・オープンレターがリンチになった日:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える⑧
・オープンレターを書いたのは「誰」なのか:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える⑨
・歴史学者はいかに過去を捏造するのか:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える⑩
・キャンセル・カルチャーの論理と心理:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える⑪
・まとめと論点整理:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える⑫
・オープンレター・ディストピアを排す:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える・完
・キラキラ・ダイバーシティの終焉:オープンレター「炎上」異聞
・お子様学者たちのファミリーレストラン:オープンレター「再炎上」余禄