織田と豊臣の真実⑬ 徳川秀忠とお江の結婚の思惑

八幡 和郎

※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)を元に、京極初子の回想記の形を取っています。(過去記事のリンクは文末にあります)

お江と徳川秀忠さまの婚儀が執り行われたのは、秀次様が切腹されてから2ヶ月がたった9月のことでした。徳川家をお拾君の後ろ盾としようという必死の願いでした。

徳川秀忠像(松平西福寺蔵/Wikipedia)

秀忠様は、織田信雄さまの長女で小牧長久手の戦いのあと秀吉さまの養女になっておられた小姫(豊臣達子)さまと婚約されていたのです。形の上では結婚されたことになっていたともいいますが、小姫さまはこのとき6歳ですから名だけのことですし、翌年には小姫さまは亡くなったのです。。

お江は秀忠さまより6歳も年上でしたが、そんなことは政治的な思惑の前では誰も問題にしませんでした。それよりも、このことで、家康さまにとっては、身の安全が保証されたようなもので、大満足の縁組みでした。

また、私たち三姉妹にとっても、織田家の家臣団筆頭として、絶対の信頼が置ける前田利家さまに加え、徳川家がお拾君の後ろ盾となってくれるであろうことですっかり安堵したのです。

お江(崇源院像:京都養源院所蔵/Wikipedia)

そして、お江にとっては、関八州の太守の奥方になるのですから、身の引き締まる思いでした。この秀忠さまという青年は、身長は160センチほど、当時としては低くありませんし、身体つきはがっちりしていましたが、なかなかういういしくて、お江も可愛いげのある夫だと気に入ることになるのです。

秀次さま個人の領地であった尾張は、大政所さまの縁者といわれる福島正則さまに与えられました。たしかなことではありませんが、太閤殿下ははじめ前田利家さまにどうかと仰ったというのですが、石田三成さまが「虎に翼を与えるようなもの」といって反対されたので、越中新川郡を加増するに留められたとも言います。

もし、そうだったとすれば、三成さまはあとで後悔されたことでしょう。

この年の2月のことですが、会津の蒲生氏郷さまが亡くなられました。父の賢秀さまは藤原秀郷の流れを汲むという近江の蒲生郡日野というところの土豪で六角氏に従っていましたが、早い時期に信長さまに下られました。さっそく、嫡男の氏郷さまを岐阜に人質に出されたところ、信長さまはこの若者をいたく気に入り、次女の冬姫さまの婿にしました。

信長さまの家来では堀秀政さまと並ぶ若手のホープで、秀政さまが小田原で陣没され、この年に氏郷さまが亡くなられたのは秀吉さまの将来構想にとっても大きな痛手でした。

秀吉さまが氏郷さまを会津に配されたのは、伊達政宗らに対する睨みで、むしろ、徳川家康さまと東国支配の両輪であることを望まれたので、家康さまの監視役ではありませんでしたが、もし、ご存命でしたら徳川に天下をやすやすと許すことはない気骨のある武将でした。

*徳川秀忠の遺骸は増上寺墓地が改葬されたときに発掘され身長なども推定が可能である。

 千姫誕生と秀忠さまへのただひとつの不満

2年前の秋に結婚したお江と秀忠さまのあいだに、待望のお子が生まれたのは、4月11日のことです。男の子でなかったのは残念ですが、お市の孫娘にふさわしい可愛い姫君でございました。

それを聞いた、太閤殿下はいずれ秀頼さまの正室にしてはどうかと仰ったと聞きました。もしそういうことになれば、わたくしたち三姉妹にとっては、このうえない喜びになります。

お江と秀忠さまのあいだは、とてもうまくいっているようでした。幼いときに母の西郷局を亡くされた秀忠さまは、甘えたりなんでも相談できる相手がいませんでした。父親である家康さまは、畏怖する存在で、甘えるなど、もとよりできるものではありません。

そこにやってきたお江は、秀忠さまにとって年上でもあり、ある意味では母親のかわりになるような女性だったのかもしれません。なんでも安心して相談できるし、世の中のことや歴史も教えてくれますから、徳川家の跡継ぎとしてやっていける自信がついたのではないでしょうか。

そんなわけで、お江のことはとても大事にしてくれましたから、お江もたいへん幸せでした。ところが・・・、ひとつ不満だったのは、秀忠さまが家康さまに対しては、まったくのいいなりだったことでございます。お江と話し合ったことでも、家康さまと話されたあとには、すっかり意見が変わることが多かったのです。

秀忠さまにそのことについて不満をもらすと、「親父はおそろしい人だ。私は親父にはいっさい反抗しないことが習い性になっているし、申し訳ないが、これからも、それを変えられるものではない」というような調子なのです。

「織田と豊臣の真実① お市に秀吉は惚れていた?」はこちら
「織田と豊臣の真実② 清洲会議と信長の子供たち」はこちら
「織田と豊臣の真実③ 賤ヶ岳戦とお市の死の真相」はこちら
「織田と豊臣の真実④ 小牧長久手戦と織田家の人々」はこちら
「織田と豊臣の真実⑤ 秀吉の側室「最高の美女」京極竜子」はこちら
「織田と豊臣の真実⑥ 淀殿が秀吉側室となった裏事情」はこちら
「織田と豊臣の真実⑦ 鶴松君の誕生と短い一生」はこちら
「織田と豊臣の真実⑧ お江が数えの12歳で結婚」はこちら
「織田と豊臣の真実⑨ 朝鮮遠征の内幕と秀頼の誕生」はこちら
「織田と豊臣の真実⑩ 天皇陛下は豊臣家の血筋を継承」はこちら
「織田と豊臣の真実⑪ 秀次はなぜ蟻地獄に落ちたか」はこちら
「織田と豊臣の真⑫ 大政所の死が秀次事件の原因」はこちら