※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)などを元に、京極初子の回想記の形を取っています。(過去記事のリンクは文末にあります)
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天下統一の仕上げは、天正18年(1590年)の小田原征伐ということになりました。とはいっても、秀吉さまは、北条氏にそれほど厳しいことを要求したわけではなかったのです。関白殿下としての権威さえ認めてくれればよかったのでございます。
信長さま以来の夢である大陸進出に、一刻も早く取りかかりたい秀吉さまは焦っていました。ところが、北条氏政・氏直の親子は、上洛しないのみならず、新たな領土拡張戦争はするなと言う惣無事令も無視しました。。
もとはといえば、北条氏も国盗りをしたのですが、五世代百年も経ちますと名門意識で凝り固まっておりました。
もっとも、北条家初代の早雲殿は流れ者の浪人などではありません。伊勢新九郎といったのですが、伊勢家は幕府政所執事、つまり、足利幕府で代々将軍家の番頭さんであり、若君の養育係をつとめていた平氏の名門です。新九郎は本家でなく備中の分家ですが、上洛して将軍の申次衆、つまり足利八代将軍義政さまの秘書官みたいな仕事をしておりました。
その妹が駿河の今川様に正室として輿入れし、しかも、未亡人に成られたので、新九郎が幼君だった氏親を補佐するために駿河に下ったのです。氏親はあの義元さまの祖父に当たられます。
そして、沼津のあたりに興国寺城をもらわれたのですが、そのころ、伊豆にあった堀越公方家で内紛がありました。このころの将軍は義澄様ですが、この方はもともと堀越公方家の出身でした。ところが、庶兄の茶々丸が将軍の母君と兄弟を殺してしまいました。その仇を討つように命じられたのが、新九郎で、その褒美に伊豆を領するようになったのです。
さらに、小田原攻略も幕府の意を受けたものだったようです。そして、革新派のエリート官僚だった新九郎は、畿内などでも理屈としては必要性を分かっているけれども、しがらみで実現できなかった革新的な政策を、新天地で積極的に実行した革新大名だったのです。
しかし、このころには、すっかり保守化し、上方の情勢にも暗くなって、成り上がり者の秀吉なんぞということになってしまったのです。
しかも、北条氏は武田信玄や上杉謙信に攻撃されても、じっと、小田原城に籠もって耐え抜いて撤退に追い込んだ成功体験があったので、今回も同じだと思ったのです。
秀吉さまは、石田三成さまに綿密な兵站計画をたてさせ、長期戦に耐えられるように図りました。小田原城を見下ろす石垣山に「一夜城」を築かせ、そこに茶々も呼び寄せました。このとき、北政所さまに、「お前の次に茶々を気に入っているのでこちらに来る手配をしてくれ」と書き送った手紙が残っております。
小田原城陥落ののち、家康さまは北条氏の旧領へ移りました。秀吉さまとしては、あまり関心のない関東は、実力のある家康さまにまかせておきたかったのです。秀吉さまは、寒村であった江戸を居城に指定し、主な家来たちの配置や石高まで指定されました。
このとき、秀吉さまじきじきの指示で上州箕輪(のちに高崎)で一二万石をあてがわれ、筆頭家老に躍り出たのが、彦根藩祖になった井伊直政さまです。
この関東移封は、清和源氏を名乗る家康さまにとっては、新田郡世良田を先祖の地と自称している上野国や、源頼朝が幕府を開いた相模国の主になるわけですから、気持ちの上でそう飛躍があるわけでもありません。
しかしながら、家臣たちは骨の髄まで三河人で、家康さまが最近になって新田氏の末流だとにわかに強調しだしたことすら違和感を持っておりましたから、小田原へ移るのには大反対でございました。
松平家は、室町時代のなかごろの応永年間にその初代の親氏が、三河に時宗の僧侶が流れてきて、現在は豊田市になっている加茂郡松平郷の土豪の入り婿になったのです。どうもそのときに、自分は上野国新田郡(太田市のあたり)の侍で新田氏の血を引くとかいっていたようですが、真偽はわかりません。
ですから、家康様が突然に源氏だと言い始められたのではありません。しかし、家来からすれば、三河を離れるなんて家康様が突然にいい出されたのでビックリ仰天でしたが、家康さまが受けた以上は従わざるをえません。
のちの上杉家の会津への転封もそうですが、戦国大名にとって移封は、家臣の力をそいで、殿様の力を強くする最高のチャンスなのでした。それを機に、家臣の序列も変えられますし、地元の有力者との繋がりも切れるからです。
令和の日本で成長企業が東京に本社を移したがるのにも、古参社員を切りたいといった意図があることが多いのと同じです。
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