4月4日、尹錫悦が韓国大統領を罷免された。筆者は昨年12月の拙稿で、なぜ「緊急命令」にしなかったのかと「戒厳」に疑問符をつけ、「トランプの様にはいくまい」と書いた。が、李在明の弾劾乱発も相当酷いし、復帰の可能性も考えていたので憲法裁判所の8対0は意外だった。

次期大統領選では十中八九李在明が勝つだろう。が、そうなれば韓国に対しては、折しも出されたトランプの相互関税の下、北朝鮮に加えて中国からの影響も大いに強まることが予想される。今後の日韓関係および米韓関係は、文在寅政権時代以上に悪化するのではなかろうか。

そんな中、テロリストの尹、すなわち尹奉吉の「追悼記念館」が金沢市に開設予定だという記事を、3月に入り『産経』が3本載せている。30日の記事は、93年前に起きた「上海天長節爆弾事件」(以下、「事件」)とそのテロを起こした尹奉吉について、次のように紹介している。
上海天長節爆弾事件 1932(昭和7)年4月29日、中国・上海の虹口公園(現・魯迅公園)で開かれていた天皇誕生日(天長節)式典に、朝鮮半島出身の独立活動家、尹奉吉(ユン・ボンギル)が爆弾を投擲。上海派遣軍司令官として出席した陸軍大将、白川義則ら7人を死傷させた。現場には上海在住日本人や上海派遣日本軍など合わせて約3万人が集まっていた。上海臨時政府設立に加わった独立活動家、金九(キムグ)が尹奉吉に事件を指示したとされる。魯迅公園には尹奉吉記念館が設置されている。尹奉吉は同年5月に軍法会議で死刑が言い渡されて金沢に送られ、同年12月に24歳で処刑された。
3月10日の記事には、施設は韓国KBSの元関係者が主導し、在日韓国人が協力していることや4月29日に開設予定であること、NHK党の浜田聡議員が会見で反対する旨述べたとある。4月5日には民団(在日本大韓民国民団)が開設に反対する談話を出したと伝えた。

事件の3日前に撮られた尹奉吉
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かつて筆者は、独立活動家を僭称するテロリストの元締め「金九」を調べていて、1937年12月の彼らがいうところの南京大虐殺(以下、「南京事件」)と「事件」とが関係していることにつき、本欄に書いたことがある。詳細はそちらをお読み願うとして、以下にその要点を記す。
日本軍入城後に設けられた南京安全区国際委員会の責任者の一人で宣教師のジョージ・A・フィッチは1883年、中国・朝鮮のシンパ宣教師を両親に蘇州で生まれた。彼は「南京事件」のデマを世界に広めた『戦争とは何か』をAP特派員ティンパーリと共著し、東京裁判にも陳述書を提供した。
米国留学から帰国した1910年前後からフィッチは、両親の影響を受けて日本に合邦された朝鮮の独立運動を支援するようになり、満州事変勃発後には中国支援にも加担した。金九ともこうした活動を通じて交流するようになったのである。
2016年6月27日付の韓国英字紙『コリア・ヘラルド』に「『韓国を愛した外国人』 韓国独立運動家の支援者、ジョージ・フィッチ家」なる記事がある。記事は、韓国政府が1968年にジョージ・A・フィッチに「独立功労勲章」を授与したという興味深いもので、次のように続く。
フィッチは蘇州生まれの米国人宣教師で、1919年には中国の上海で朝鮮人独立運動家たちに集会所を提供し、1920年代には朝鮮人救援会の理事や仁成学校の顧問を務め、1932年には虹口公園での尹奉吉の愛国的な行為の後、金九を避難させた人物である。
金九の自叙伝『白凡逸志』に拠れば、32年4月29日に起きた「事件」現場で尹奉吉が捕えられた後、金九はフィッチに匿ってくれるよう頼み、フィッチ宅二階の提供を受けた。フィッチ夫人は手ずから食事一切の世話を焼き、金九らはフィッチ宅の電話を使って様子を探った。
金九は尹奉吉を庇って、「事件」の「責任者は金九」とする声明をフィッチ夫人に翻訳させて発表した。斯くて「事件」の首謀者が金九だと世界に知らされた。日本から懸賞金60万元を懸けられた金九を、蒋介石政権は飛行機で逃がしてやろうと申し出たが、金九はこれを固辞した。
20日余りが過ぎ、スパイが密かに家を取り巻いて見張っていることを知った金九らは、フィッチの運転する自家用車にフィッチ夫人と共に同乗、仏租界過ぎて中国領にある停車場まで行き、汽車で浙江省嘉興の紡績工場へと逃れた、というのが金九上海脱出の経緯である。
現場で捕らえられた尹奉吉は上海派遣軍の軍法会議で裁かれ、死刑判決を受けた。その後、「事件」で負傷した植田謙吉中将が師団長を務めていた陸軍第9師団の駐屯地である金沢市に移送・留置され、市内で銃殺刑に処された。
これが「記念館」が金沢に置かれる由縁だが、同市では抗議活動が激化し、軽自動車が民団地方本部の壁に突っ込む事件も発生した。民団は「分断と暴力、ヘイトが無い社会を強く望みそして目指していく」と述べた。開設は延期される見通しようだが、当然中止されるべきである。
そして我々日本人は、今回の「記念館」騒動と1968年の韓国英字紙の記事によって、1923年4月29日に起きた「上海天長節爆弾事件」に加担した米国人宣教師が、その14年後の「南京事件」の捏造にも大きく関わっていたことを改めて想起するのである。
【参考拙稿】
- ヘボン博士と南京大虐殺捏造を繋げる上海の聖書印刷所(前編)
- ヘボン博士と南京大虐殺捏造を繋げる上海の聖書印刷所(後編)
- 金九自伝に見る大韓民国臨時政府と二つのテロ事件(前編)
- 金九自伝に見る大韓民国臨時政府と二つのテロ事件(中編)
- 金九自伝に見る大韓民国臨時政府と二つのテロ事件(後編)
- 「ポツダム宣言」を流したプロパガンダ機関「OWI」の正体