韓国はいつから中国の従属国になったのか

誤解だらけの韓国史の真実 改訂新版』(清談社、5月4日発売)の刊行を機にした、日韓関係史の基礎知識の第10回。

しばしば、韓国は中国の従属国であるというが、外交史として議論するには、もう少し厳密に議論する必要がある。

APEC首脳会議での習近平国家主席と尹錫悦大統領 2024年11月 中国共産党新聞より

中国と冊封関係を持ったら従属国だというのは、間違いである。そもそも冊封関係という言葉は戦後になって東京大学の反日史観の持ち主が新たに作った造語であり、中国や韓国でもほぼ使われていない。

冊封などというのは、中国からの外交的承認に過ぎない。遣唐使を派遣していたから日本は唐の属国だったというなら、ローマ帝国もサラセン帝国も英国もそうだということになる。

新羅は長い間、漢帝国の楽浪郡、馬韓諸国、日本人などに押された弱小国だった。

新羅は、日本海に面しており、海上を通じての交流は難しかったので、中国との関係は薄いものであった。しかし、法興王の521年になって、百済に伴われて南朝の梁に朝貢を行ったが、このとき、百済は自らの服属国として紹介した。

王は仏教を国教と定め大興寺、永興寺、仏国寺を創建し、新羅で初めて建元という年号を制定した。そして、真興王は、百済が高句麗から取り返した漢江流域を553年に横取りしたので、660年の唐による滅亡まで百済とは、対立関係が続く。

また、日本とは、百済との密接な関係を嫌った任那東部の小国家群の不満につけいる形で、任那に侵食していった。

そして、ソウル付近を併合したことで、東の黄海の港を手に入れることになり、大陸との交流が盛んになった。新羅は、文化程度は高かったが軟弱だった百済と違って、いわば武士の国のようなところがあった。百済をアテナイに、新羅をスパルタにたとえることもできると思う。

高句麗は隋が南朝攻略に専念していた時期に、598年、防衛ラインを遼西方面に築くべく侵攻した。

それに怒った隋の文帝は、第一回の派兵をするが敗退した。跡を継いだ煬帝は612年に100万の大軍を送ったが、高句麗の将軍・乙支文徳が偽りの降伏をして油断させ、平安道清川江での「薩水大捷」という大勝利などで隋軍に壊滅的な打撃を与えた。これがきっかけとなって、隋では民衆が反乱を起こして滅びてしまった。この乙支文徳は韓国では李舜臣らとともに民族的英雄として尊敬されている。

唐が成立したのちも、唐の太宗は高句麗を攻撃したが失敗した。優位に立った高句麗は、百済とも協力して新羅を攻めた。

このころ、新羅では真平王に王子がなく、韓流ドラマで有名になった善徳女王(632–647)が即位する。これを助けたのが、祖父が新羅王だった金春秋とかつて任那の一部だった金官国王家から出た金庾信である。

これを見て、百済は新羅に取られた領土の奪還を狙って攻勢をかけ、日本や高句麗と結んだ。新羅は唐に百済との紛争の仲介を求めたが、かえって、女王を即位させたことを厳しくとがめられ、唐帝室から誰か男子の国王を派遣したいとまでいわれた。

金春秋は、日本、唐、高句麗を歴訪し生き残り作戦を模索し、648年に唐太宗と同盟関係を成立させることを決断した。つまり、属国化である。

自虐史観の学者があえて触れないので日本人が知らされないのは、コリアン国家がこの時期の新羅の決断によって、それまでの高句麗、百済、新羅と中国の王朝とのゆるい朝貢関係でなく、本格的に属国化されることになったということだ。

遣唐使や遣明使を派遣した日本も中国中心の冊封関係に組み込まれていたので、コリアン国家が置かれていたのと同じであるという人がいるが、これは二つの意味で間違いである。

まず、第一に、日本がそういう使節を派遣していたのは、2000年の歴史の中でごく限られた時期だけだということである。第二には、遣唐使のようなゆるい上下関係とコリアン国家の中国に対する強い従属性はまったく異質なものであるということだ。

新羅は、649年には唐の衣冠礼服の制度を採用し、650年に独自の年号を廃止して唐の年号(永徽)を用い、姓も中国風の一文字に思い切りよく変えていった。

日本にも651年に新羅の知万という貢調使が、唐風の服を着て筑紫に着いたので、大宰府では非礼として追い返した。たかが服装と思われるかもしれないが、これは古代の外交上たいへんなことであった。

唐の高宗は百済を滅ぼし併合し(660年)、高句麗についても、内紛で莫璃支の地位に就けなかった王の長男が666年に唐に投降したので、50万の唐軍が27万の新羅軍の助太刀を得て高句麗を降伏させ唐に併合した(667年)。

百済の滅亡は金春秋が武烈王(654–661)として即位したあとであり、高句麗の滅亡は、その子の文武王(661–681)のときである。

よく間違う人がいるが、百済や高句麗の滅亡のときには、新羅は唐に助太刀をしただけで、唐が百済と高句麗を併合したのであって、新羅による統一戦争ではない。

唐は平壌に安東都護府(都督府より上位)を置き、半島から満州にかけてを全体的に統括させ、熊津都督府を置いて羈縻州(自治州)として百済最後の王である義慈王の子の隆を熊津都督・百済郡公・熊津道総管兼馬韓道安撫大使とし、新羅の慶州にも鶏林州都督府を置いたので、文武王は国王から鶏林州大都督にいったん格下げされた。

そこで、新羅では、670年から唐と戦うことにして、百済地域では有利に戦局を進めるため百済の貴族を重用し、高句麗の王子に高句麗王を名乗らせて(高句麗の故地でなく)全羅道に住まわせ、日本にも朝貢使節を出させた。

この戦いは唐が、高句麗の残党も与して建国された渤海や吐蕃(チベット)と紛争を抱えたので、新羅が唐と渤海との戦争に兵を出すことを条件に、大同江以南、つまり、百済旧領のすべてと高句麗領の一部を新羅領とすることで735年に決着した。

文武王の孫である聖徳王(在位:702年–737年)のときである。伝統的な歴史観では、これをもって新羅の三国統一の完成ということになるが、戦後になり、南北朝鮮で新羅と渤海の南北国時代に入ったという奇抜な解釈がとられるようになったので議論が混乱している。韓国史においては2000年のあいだ誰も主張していなかった奇抜な説明が突然登場するのはいつものことである。

新羅は、唐との関係が悪いときには日本に低姿勢となり、朝貢して潜在主権を認めたことになる任那の調などもってきたが、唐との関係が改善すると対等の関係を主張した。

753年には長安大明宮での朝賀で新羅の方が上位に置かれる事件があり、遣唐使大伴古麻呂が新羅がもともと日本の従属国であると主張し、唐もそれを認めて順位を入れ替える事件があった。

759年には、唐での安史の乱を見て、恵美押勝は渤海と手を結んで「新羅が本来、属国であるにも関わらず日本に非礼であるためとしている」として征伐しようとしたが、恵美押勝と孝謙上皇との対立で実行に移せなかったのは残念なことであった。

日本の学者が「新羅侵略計画」と表現したのを見たことがあるが、日本の領土で侵略された任那を回復し、同じく友好国だった百済を復興するのを侵略というのは見当外れもいいところである。

そして、古代における事実上の外交的な交流の最後は、新羅の恵恭王が、779年に「任那の調」を持った使節を日本に派遣したときであった。

日本側は喜んだが、調子に乗って次回はきちんとした上表文を持ってこいと命令したところ、もはや新羅の使節は現れなかった。日本としては、最後に任那への潜在主権だけ確認して実質的には、幕引きにしたということになる。


誤解だらけの韓国史の真実 改訂新版

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