中東の産油国はオイル・マネーで潤い、世界でもっとも豊かな繁栄を享受しているが、ガザの悲劇、イラン紛争、クルド人の苦境、アルカイーダやISILの跋扈があり、民主主義が良好に機能している国はひとつもない。世界中の苦悩を背負っているような状態だ。

中東を更なる混迷に陥れたトランプ大統領 ネタニヤフ首相 とイランのモジタバ・ハメネイ師
いったいどうして中東地域はこんなことになったのか、どうすればいいのか。歴史を振り返って骨太に考えてみよう。細かい歴史的な事情は、『国家の興亡史からわかる現代地政学――西欧の衰退』(さくら舎)で論じたが、ここでは少しかみ砕いて茶飲み話チックに説明する。
イスラム帝国がスペインからイラン全域まで支配しても、東ローマ帝国はトルコと東欧を死守した。15世紀になるとオスマン帝国が東ローマ帝国を滅ぼし、北アジア、東欧、トルコ、黒海沿岸、それにイランを除く中東を支配した。地中海ではオスマン帝国とキリスト教諸国が拮抗し、後者は大航海時代にあって世界の海を席巻した。
オスマン帝国はイスラム教徒なら民族差別をしなかったし、他宗教にも寛容だった。イランとも1639年にズハーブ条約で現在のイラク・イラン国境が定まるなど比較的平穏だった。ただ、東欧ではハンガリー国王も兼ねたハプスブルク家に徐々に領土を回復された。また、モンゴル支配から自立したロシアに18世紀に黒海沿岸を奪われた。
19世紀になると西欧に支援されたエジプトが事実上の自立をし、ギリシャは独立し、東欧はハプスブルク帝国とロシアの圧力で撤退が進んだ。しかし、中東ではオスマン帝国の支配は続いた。ところが、19世紀末になるとトルコ人の民族意識が暴走し、アラブ人やアルメニア人など他教徒を差別し、一方、彼らの方でも民族意識が高まった。
また、ヨーロッパ各国で差別されていたユダヤ人のあいだでシオニズムが勃興し、パレスティナに帰還しユダヤ国家の建国を目指そうとした。
一方、ドイツはイスラム教徒の友と称して3B(ベルリン・ビザンツ・バグダード)政策を推進し、フランスは十字軍以来の伝統的なこの地とのつながりを拡大しようとし、英国はインドへの道の確保のためスエズ運河を支配し、さらに発見された油田を確保しようとした。
また、英国は第一次世界大戦中にメッカのハシーム家にアラブ人王国の建設を、ユダヤ人にイスラエル国家の建設を約束する二枚舌外交を展開した。
第一次大戦後、オスマン帝国は滅びてトルコ共和国が生まれた。シリア・レバノンはフランスの委任統治。英国はパレスティナを委任統治し、イラク、ヨルダンは委任統治だが王国として自立した。湾岸諸国は保護国とした。アラビア半島ではサウド王家がサウジアラビアを建国し、イエメンは独立国、南イエメンは英国の植民地と保護領、オマーンは独立国だった。エジプトは英国の保護国といったんされたが独立した。
これらの国は第二次世界大戦後、独立していったが、問題はパレスティナだった。英国の方針も揺れ動いた。第一次世界大戦後、当初はユダヤ人の流入は黙認したが、ユダヤ国家には気乗りせず、アラブ人主体の地域内にユダヤ人の「民族的拠点」をつくるつもりだったようだ。1920年代になると二民族共存で英国は仲裁者として統治しようとした。しかしシオニズムの高揚のなかで1930年代前半には分割案に傾いたり、そのあとアラブ優位の単一国家に傾いたりしたが、ユダヤ人側はテロを繰り返して英国統治を脅かし、1947年に英国を撤退に追い込んだ。
国連は1947年にパレスティナ分割案を承認し、ユダヤ人に国土の77%を割り当てた。イスラエルは1948年に独立を宣言してパレスティナ主要部を占拠し、第一次中東戦争に勝利してさらにこれを拡大した。公平にみれば、この段階、つまり第三次中東戦争(1967年)以前のイスラエル領でもパレスティナ人からみれば不法な簒奪であるが、英米仏に加えてソ連、中国まで含めた承認を得たのであるから、国際法上は認められた領土である。
しかし、東エルサレム、ヨルダン川西岸、ガザ、ゴラン高原などは、国連も認めていない不法占拠地である。ただ、1993年のオスロ合意で、パレスティナ国家の創立を認める方向での二国家案で合意され、ガザ地区とヨルダン川西岸の一部がパレスティナ自治政府に引き渡された。ただし、最終的な領土線引きについては合意されていない。というわけで、国連の立場からすれば、イスラエル領は1967年以前のものに限定される。
現在は、イスラエルが二国家案を反故にしたがり、かつ、ヨルダン川西岸のパレスティナ人を追い出して入植地を拡大している。
日本も含めて世界各国のほとんどは二国家案を支持している。一方、イスラエルは二国家案に代わるどのような最終形態を目指しているかは明らかでない。ただ、論理的には二国家案を否定してパレスティナ全体をひとつの国家にするとすれば、ユダヤ人とパレスティナ人に同等の権利を認めるべきである。
そうなるとさしあたっては少しユダヤ人が多数派でも、いずれはアラブ人が多数派になるはずで、ユダヤ人は南アフリカの白人のように少数民族として暮らすことになるのが論理的だし、私の案でもある。
一方、1967年以前の領土をもとにした二国家が成立したとしても、イスラエルは故郷を追われたパレスティナ人や国連決議にも反した不当な占拠のもとで行われた暴虐について賠償責任があることはいうまでもない。

現在の中東 Wikipediaより
中東で民主主義が成立しないのは、石油利権を守るために前近代的な君主制国家を英米が支持し維持させているのが最大の理由である。サウジのように巨大な王族が富と権力を独占し、恣意的に権力をふるい、むち打ち刑に代表される前近代的な体制が自由主義陣営が支持するべき体制のはずがない。
戦後のアラブ諸国では、シリアで生まれ、エジプトのナセルなどが属したイスラム色が薄く穏健左翼でアラブ民族主義を掲げるバース党が多くの国で力を持った。ところが、英米が石油やスエズ運河の利権を守るためにバース党を嫌い排斥したので、バース党はソ連に接近したりし、また、バース党政権を倒したあとには宗教過激派の政権が民意を獲得しやすいのである。
イラクもフセインを排除するとしても、バース党を壊滅させる必要などなかったようにみえる。日本の占領行政では、公職追放での追放はしたが、官僚機構を壊滅させるような馬鹿な真似をしなかったから戦後復興が成功したし、西欧民主主義的な保守政党が成立もしたのである。シリアもアサド政権の関係者を排除しすぎると政治の安定は難しいのではないか。
君主制を全面的に否定するつもりはないが、少なくとも立憲君主制への移行をすべきなのは当然である。アラブで民主主義が実現しないのは、石油利権とイスラエルを守るために前近代的な君主制や軍事独裁政権と組む英米などの責任であって、アラブ民族主義やイスラム教の責任ではまったくないのである。
イランについては、すでに『イランのイスラム政権が国民の支持を失わない理由』で書いたように、戦後、民主的でイスラム色もあまり強くなくバース党に似た体質のモザデグ政権が石油産業の国有化を目指したために、英米がパーレビ国王の復権を後押しし、その圧政に反対してイスラム主義の政権が成立してしまったのである。モザデグ政権を倒さなかったらイランも普通に豊かな近代国家になっていたはずである。

■
【目次】
第1章 文明の源流と民族奥亡が紡いだ古代ユーラシアの大地図
第2章 大航海、新帝国、革命が形づくった近代ユーラシアの再構築
第3章 ユダヤ・イスラーム・ギリシアの世界が形づくった中東の文明圏
第4章 ロシアとウクライナを形づくった千年の興亡史
第5章 インド文明を形づくった大地・民族・宗教の多層史
第6章 王朝・民族・地政学で読み解く東アジア世界の歴史構造
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コメント
この記事が指摘する「中東に民主主義が根付いていない最大の原因は英米の介入だ」という主張には、説得力があります。モサデグ政権を倒したり、石油利権のために前近代的な君主制を守り続けたりした歴史は、批判されて当然です。その点はしっかり賛同したいと思います。
ただ、一つ大切な視点が抜けていると感じました。民主主義というのは、どの国でも一夜にして完成したものではない、ということです。
たとえば日本では、1889年に帝国憲法ができましたが、最初は天皇主権で選挙権もごく一部の人にしかありませんでした。男女ともに平等な選挙権が実現したのは、戦後の1947年のことです。約60年かかっています。アメリカも「自由と民主主義の国」として知られていますが、黒人の投票権が実質的に守られるようになったのは1965年の投票権法まで待たなければなりませんでした。建国から約190年です。イギリスは1215年のマグナ・カルタから数えれば700年以上かけて少しずつ民主主義を育てており、男女平等の普通選挙は1928年のことです。フランスも革命後に王政に戻ったり帝政になったりと、民主化は一直線ではありませんでした。ドイツはワイマール共和国という民主主義がナチスによって崩壊するという苦い経験を経て、戦後にようやく安定した民主制度を築きました。
こうした歴史を見ると、「中東の人々には民主主義が向いていない」という偏見がいかに間違っているかがよくわかります。問題は民族や宗教ではなく、民主化のプロセスそのものを外部勢力に何度も邪魔され続けてきたことにあるのです。
記事の主張、つまり「アラブ民族主義やイスラム教の責任ではなく、英米などの責任だ」という点は、この歴史的な見方とも一致しており、正しいと思います。中東の人々にも、邪魔されなければ自分たちのペースで民主主義を育てる力があったはずです。
【日本】開国と明治維新を通じて中央集権国家を築き、自由民権運動を背景に1889年の大日本帝国憲法、1890年の帝国議会で立憲政治が始まった。ただし当初は主権在君で選挙権も限定され、十分な民主主義ではなかった。大正デモクラシーの流れの中で1925年に男子普通選挙が成立したが、その後は軍部台頭で後退し、敗戦後に1947年施行の日本国憲法で国民主権と基本的人権が明確化された。
【アメリカ】イギリスからの分離を宣言し、合衆国憲法で連邦共和制の枠組みを整えた。ただ建国当初の民主主義は限定的で、実際には白人男性中心だった。南北戦争後の憲法修正15条で黒人男性の投票権が認められ、1920年の修正19条で女性参政権が実現したが、なお南部では人種差別的抑圧が続いた。1965年の投票権法によって、その法的障壁の是正が大きく進み、より実質的な民主主義に近づいた。
【イギリス】1215年のマグナ・カルタ以来、王権制限の伝統が育ち、17世紀の名誉革命と1689年権利章典で、議会の優位と自由選挙の原理が強まった。その後も一気に民主化したのではなく、19世紀の選挙法改正で中産階級・労働者へ参政権が広がり、1928年に男女平等の普通選挙、1969年に選挙年齢18歳が実現した。急進革命より、長い制度改革の積み重ねで民主主義を深めた国といえる。
【フランス】1789年の革命で絶対王政を打倒し、主権が国民にあるという近代民主主義の核心を打ち出した。しかし、その後は王政復古や帝政も経験し、民主化は一直線ではなかった。1792年には男性普通選挙が導入され、1848年の第二共和政でも普遍的選挙の原理が再確認される。1875年の憲法諸法の下で第三共和政が定着し、戦後の第四・第五共和政を経て、現在の安定した共和制民主主義へとつながった。
【ドイツ】1871年の統一後も、皇帝と軍の力が強い制限的立憲制にとどまり、本格的民主主義とは言い難かった。第一次大戦後のワイマール共和国で議会制民主主義が本格化したが、経済危機と政治不安の中でナチス独裁に崩壊した。第二次大戦後、西ドイツは1949年基本法の下で、議会中心の安定した民主制度を再建した。1990年の統一後は、その西側の民主主義秩序が統一ドイツ全体の土台となった。
【イタリア】統一後、立憲君主制国家になったが、当初は参政権が限定され、民主主義は未成熟だった。第一次大戦後の混乱の中でムッソリーニのファシズム体制が成立し、自由な政治は失われた。転機は第二次大戦後で、1946年の国民投票で王政を廃止して共和国を選び、同時に制憲議会が新国家の基本設計を担った。1948年施行の共和国憲法は、男女の選挙権と議会制民主主義を明確に据え、戦後民主化の土台となった。
【カナダ】革命で旧体制を倒したのではなく、1840年代の責任政府の成立を出発点に、英国型の議会政治を段階的に育てた。1867年の連邦成立後も自治権を広げ、1931年のウェストミンスター憲章で対外的自立を強め、1982年の憲法本国移管と権利・自由憲章で法的自立を完成させた。参政権も当初は制限的で、女性の連邦選挙権や先住民の完全な連邦参政権の実現を経て、現在の多元的な議会民主主義へ発展した。