沖縄は日中両属だったという誤解を論破する

沖縄のことを日中の中間地帯だとか、中国の領土だったと誤解している人がいる。しかし、沖縄の住民は南九州から移住した人々で縄文系の色彩も強く、日本人でいちばん中国人と縁遠い。言語も日本語の方言ないし極めて近い言葉である。また、冊封関係が領土であったことを意味するなら韓国やベトナムこそ中国の領土になってしまう。

私は沖縄総合事務局の企画調整課長を1980年代に務めたことがある。初代は堺屋太一で私は7代目だった。その後、通商産業省の中国・台湾担当課長だったこともあるので、沖縄、日本、中国・台湾それぞれの立場からこの問題をみてきたし、また、著作も結構ある。いちばん詳しいのは、『誤解だらけの沖縄と領土問題』(イースト新書)だが、絶版になっている。最近刊の『国家の興亡史からわかる現代地政学――西欧の衰退』(さくら舎)とか『365日でわかる日本史』(清談社)でも沖縄の問題を論じている。

沖縄は奈良時代から日本の領土だと意識されていたが、農耕社会への移行が遅かったので、律令制による行政機構を及ぼす必要もなかった。12世紀にあたりになると南九州からの移住者もあって農業が盛んになり、クニらしきものも成立してきた。この時代より前にも住民はいたが、数はとても少なかったので、沖縄の人々の主たる先祖は、この南九州や奄美からの移住者のようだ。

琉球の正史である『中山世鑑』が源為朝が領主の妹と結婚し、生まれた子が琉球王家の始祖である舜天王だとしているのは、そうした記憶に脚色が加えられたものだ。

そして室町時代頃には、本土の古墳時代のような状況になり、中山、南山、北山の3国鼎立時代になった。そのころ、中国で明が成立し、周囲の国に入貢を勧めた。沖縄にも使いを出し、船も用意して、何か貢ぎ物を持ってきたら何倍ものお返しをするとすすめられ、冊封と朝貢が始まった。統一王朝となった中山国は琉球と呼ばれ、日本や東南アジアと中国の中継貿易で賑わった。

また、外交や行政の専門家がいないだろうと福建省人を350家族下賜した。彼らの子孫が北京に留学して官僚となり、外交も牛耳ることになったし、彼らは上流階級の一部をなしたわけで、中世のヨーロッパ諸国におけるイタリア人のようなものだ。DNAの割合としては小さいが、有力者には人口比より多いようだ。たとえば、稲嶺一郎、仲井眞弘多両知事は中国系の名門出身だ。

日本との関係は組織だっていなかったが、言語は日本語とほぼ同じだし、室町幕府は仮名書きの文書で内国扱いとして交流し、島津氏は交易を独占しようと試みていた。ただ、中継貿易のメリットは、倭寇の跋扈や南蛮船の到来で非公式貿易が盛んになると失われていった。

豊臣秀吉は征明にあたり、琉球にも軍役を課したが、琉球王国はこれを島津氏に肩代わりしてもらってしのぎ、踏み倒した。そこで、島津氏は、琉球征伐を提案して、幕府も国威維持のために許可した。国王尚寧は江戸に連れ去られ、島津氏は奄美群島を直接支配地に編入し、役人を常駐させて73万石という石高にも沖縄分が10万石ほどカウントされていたが、明との朝貢貿易は続けさせた。江戸幕府の鎖国がゆえに、琉球を介した島津と清国の貿易は貴重なものとなった。

明や清にはこの島津支配は秘密だったという都市伝説があるが、琉球王府には中国人の官僚が多くいたのだからそんなことはありえない。ただ、明や清は島津と琉球の関係は公式には認められないので、知らない建前にしたのである。

黒船が来航するようになると、阿部正弘や島津斉彬が、琉球を独立国と位置づけて、鎖国の建て前を崩さずに、欧米と日本の中継貿易をさせる腹案を出した。そのために、琉球に独自に条約を結ばせたが、これは、欧米諸国が琉球を植民地化するおそれもあったので、維新後の明治新政府は内国化を急いだ。

ちょうど、宮古島の島民が台湾で原住民に殺され、日本政府は清国に賠償を求めたが、清国政府が「化外の地」だから清国政府は責任を持てないとしたので、日本はこれ幸いと台湾に出兵し占領したところ、清が賠償金を払った(1874年)。このことで、台湾は中国、琉球は日本ということがかなり明確になった。

日本は、琉球国を琉球藩に変更し、ついで、清との交流の差し止め、日本の法制度の適用を求めたが、王府が煮え切らなかったので、1879年に警察隊とともに首里城で沖縄県の設置と国王一家の東京居住を命じた。この一連の動きを「琉球処分」という。

HunterKitty/iStock

華人官僚などは、清に助けを求め、宮古・八重山を清国領とする代わりに、本島が日本であることを明確化するとともに、日本商人の内陸部での商業活動を自由化するという取引案もあったが、妥協にいたらないうちに、日清戦争が起こり、台湾までもが日本領になった。

ここで注目すべきなのは、沖縄が明や清の一部であるという主張がされたわけではなく、朝貢と冊封という関係が近代国際法においてどういう意味をもつかが問題になっただけだということだ。

最近、ときとして中国人が琉球は清の一部だったということがあるが、それなら、朝鮮やベトナムも同じのはずだ。しかも、朝鮮やベトナムには、琉球にとっての日本にあたる存在はなかったのだから、独立国としての朝鮮やベトナムの歴史を否定することになるだろうと反論すればいいと思う。

実際、琉球国と条約を結んだペリー提督も、言葉や風俗など明確に日本人だし、島津は常駐しているし日本人商人も多く住むが、清国との往来は何年かにいちどだけだし中国人商人もほとんど住んでいないといっていた。

最近、戦災で焼け、さらに失火で再焼亡した首里城が再建され、いかにも中国風だと思われているが、戦後の再建のときに、もとの建物よりはるかに豪華にエキゾティックにした経緯がある。

また、戦災で焼けた首里城は島津氏の援助でそれまでより豪華にしたものだったし、正面のいわゆる唐破風の玄関も中国風にみえるが、唐破風というのは平安時代の日本で生まれた様式で、桃山時代あたりからはハイカラだというような印象を持った人が中国風と勘違いして呼んだことに由来する。(戦後の経緯については別の機会に書く)


国家の興亡史からわかる現代地政学――西欧の衰退

【目次】
第1章 文明の源流と民族奥亡が紡いだ古代ユーラシアの大地図
第2章 大航海、新帝国、革命が形づくった近代ユーラシアの再構築
第3章 ユダヤ・イスラーム・ギリシアの世界が形づくった中東の文明圏
第4章 ロシアとウクライナを形づくった千年の興亡史
第5章 インド文明を形づくった大地・民族・宗教の多層史
第6章 王朝・民族・地政学で読み解く東アジア世界の歴史構造

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