龍馬の幕末日記⑮ 土佐でも自費江戸遊学がブームに

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」 』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

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江戸時代の日本では、他国への旅行は原則、禁止だった。その辺の事情は、あとで書くが、天保のころからだが、学問や修行のため他国へ行くことは、わりに広く認められ大流行していった。

まして、私のような金持ちの次男にとっては、珍しいことではなく、「龍馬伝」で描かれていたのと違い突拍子もない話ではなかった。

もちろん、政庁の許可を得るために「伺い」を出さなければならないが、これは御家老の福岡宮内孝茂様を通じて願い出た。福岡孝茂というのは、明治になって参議、文部卿、枢密顧問官などを務めた福岡孝悌のお祖父さんだ。

土佐の郷士は家老クラスの誰かの支配下に置かれており、坂本家の場合にはそれが福岡家だったのである。

その願いは嘉永六年(1853)3月4日に出されて、日付は忘れたがまもなく聞き届けられ、16日には立川番所通過の手形を受け取り、翌17日に出立した。

このとき、父の八平からは「修行中心得大意」を授けられた。「かたときも忠孝を忘れず修行第一のこと。諸道具に心移り銀銭を費やさざること。色情に心を移し国家の大事を忘れるような心得違いをするな。

この三箇条を胸中に染め、修行を積み、めでたく帰国することにせよ 老父 龍馬殿」という誠にもっともなものだった。ただし、ここでいう国家とは日本でなく土佐のことだ。

ところで、日本人は「旅」が大好きだが、江戸時代にはこれがたいへん難しいことだった。「東海道膝栗毛」などを読んで、庶民も旅行したはずと思う人もいるが、そんな甘いものではなかった。

どうして庶民の旅行が好まれなかったかというと、まず、各藩では富が領外に流出することを嫌った。外貨保有が少ない国が海外旅行を規制するのと同じだ。治安を守る意味でも他国との交流を出入国とも嫌がる藩も多かった。

だが、それ以上に、農民が逃げたりし旅で不在だったりすると、年貢のもとになる米の生産を確保できなくなるのを恐れた。

江戸時代の税収は、米にかけられた年貢に片寄っていた。武士は税金を取られないし、商工業者からうまく課税するノウハウもなかったからだ。そこで、重税を嫌って都市に出るのを防ぐために、農民の領外への旅は厳しく制限されていたのである。

逆に言えば、町人の旅はわりに自由だったし、大都市の周辺で各大名や幕府の領地が入り組んでいるところでは、領外へ出ることを規制するにもしようがなかった。つまり、地方の農民は弥次喜多道中を楽しむ機会などほとんど持てなかったのだ。

*本稿は「戦国大名 県別国盗り物語 我が故郷の武将にもチャンスがあった!?」 (PHP文庫)「本当は間違いばかりの「戦国史の常識」 (SB新書) と「藩史物語1 薩摩・長州・土佐・佐賀――薩長土肥は真の維新の立役者」より

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