龍馬の幕末日記⑯ 司馬遼太郎の嘘・龍馬は徳島県に入ったことなし

2021年01月16日 06:00

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」 』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

Hiro1960/写真AC

司馬遼太郎さんという方が私が死んで一世紀ほどしてから、私を主人公にした「小説」とかいうものを瓦版に連載されたそうだ。「竜馬が行く」とかいうタイトルで、私を格好いい英雄にしていただいている。

だれのことかと思うところも多いが、格好よく書いていただいて感謝している。ただ、事実と違うところも多い。

たとえば、私は四国のなかで阿波の国だけはいったことがない。ところが、司馬さんの小説では、私が土佐を出て最初に足を踏み入れた国は阿波だということになっている。

このころ、土佐藩では参勤交代をするのに、高知から北へ向かい、伊予、讃岐を通って播磨に船で渡っていた。江戸時代のはじめには、浦戸から船で大坂に乗り付けていたのだが、幕府から大きな船の建造を禁止されたものだから、この航路は非常に危険になったのでやめた。

そこで、土佐国内を陸路東へ向かい、阪神タイガースのキャンプ地として有名な安芸などを通り、奈半利から山越えで阿波国境の甲浦に出て、そこから大阪へ向かうルートに変えた。

だが、それでも天候によっては船待ちが必要で、江戸到着が一ヶ月も遅れたこともあり、享保の頃からは陸路を北へ向かい、伊予の新宮や川之江へ出て、丸亀などから播磨の室津あたりに渡り、あとは東海道を東へ下るルートを取るようになった。

現在の大豊町に立川番所というのがあって、伊予への国境を越える前の最後の宿場で、参勤交代のときに殿様が泊まる立川御殿というのがあって、これが今でも残って重要文化財になっている。

私もここを通って伊予に入った。「竜馬がゆく」では阿波境の峠から、現代の鉄道と同じように大歩危・小歩危の絶景を見ながら吉野川沿いを下り、鳴門に回ったように書いてあるが、そんなおかしな道は通らない。

まして、福岡家の姫である「田鶴」という女性と船を待つ港で同宿したなどというのは、ひどい嘘だ。だいたい、そんな姫がいるとは聞いたことすらない。あれは、司馬さんの創作した人物であるし、それにまつわる話はすべてフィクションだ。

「龍馬伝」のように途中まで岩崎弥太郎と一緒だったということもない。

のちに私が土佐に復帰する仲立ちをしてくれる溝渕広之丞と一緒に、だいたい殿様の参勤交代とよく似た道を通って伊予に出た。海を渡る船に乗ったのは初体験だったので、のちに海援隊で活躍する原点がここにある。溝渕ははじめての江戸行きでなかったから、安心な旅だった。

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評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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