イランでパーレビ王家の復権はまずない

イランの皇帝というと、1979年のイスラム革命で失脚し、モハンマド・レザー・シャー(パーレビ国王と日本では呼ばれることが普通だったが、皇帝とされることもあった)が日本では有名だ。

シャーはアメリカに亡命したが、テヘランの大使館占拠事件で居づらくなり、パナマを経てエジプトで客死した。ところが、このところ、その息子のクロシュ・レザー・パフラヴィー(1960年-)が帰国して新体制の指導者になろうと画策している。

クロシュ・レザー・パフラヴィー氏とハメネイ師 Wikipediaより

「イラン国民の連帯」など、彼を擁立して国王を象徴として戴く民主国家樹立を求める支持者がおり、これまでも盛んに米国政府にイスラム体制打倒を訴えていたが、人気はない。なにしろ、帝政時代の前向きの評価などないからで、トランプ大統領も彼を体制継承者になれるとは考えていないことを明言している。

【参照リンク】イランのような斬首作戦では長期的に悪い影響しかない 八幡 和郎

このあたりは、ベネズエラのときもそうだが、トランプの現実主義の良い面だ。

1978年のイラン王室 Wikipediaより
レザー・パフラヴィーは右から2番目

さて、ここで歴史の振り返りとして、イランの王朝の歴史を、新著『国家の興亡史からわかる現代地政学――西欧の衰退』さくら舎)を使って紹介したい。

イスラエルとイランはいまや仇敵だが、歴史的には友好関係にある。なにしろネブカドネザル王によって行われたバビロン捕囚(前597〜539年)を終わらせたのはアケメネス朝ペルシャによる征服だったのである。

パーレビ・シャーはイスラム教条主義と戦うについて古代ペルシャとのつながりを利用した。ペルシャ建国2500年にあたる1971年にはペルセポリス遺跡で絢爛たる歴史絵巻の再現による記念祭を挙行して、シャー自ら建国者キュロスの霊魂に呼びかけた。

しかし、少々調子に乗りすぎて、パリに亡命中のホメイニ師を奉じる過激派にイスラム革命を起こさせてしまった。

古代ペルシャ帝国がBC330年にアレクサンドロス大王によって滅ぼされたあとのギリシャ人やパルティアの支配を経て、3世紀にはササン朝ペルシャが栄えた。行政機構も高度だったが、正倉院にある御物に見られるように工芸や料理にも高い文化水準を誇り、それは、サラセン帝国を経て現代ヨーロッパ文明の源流のひとつにもなっている。

ササン朝ペルシャは東ローマ帝国と覇権を争ったが、サラセン帝国に滅ぼされた(651)。ただし、この帝国の首都はクテシフォン(バグダード郊外)であり、そもそも現在のイラクもペルシャ色の強い土地なのである。

そののち、諸民族がこの地を支配し、その下でペルシャ人は官僚などとして重宝される時代が続いたが、1501年にはアゼルバイジャン系でシーア派のサファビー朝が成立した。首都ははじめタブリーズ、ついで、「世界の半分」とまで称えられたイスファハンに置かれた。

そののち、アフシャール朝、ザンド朝、ガージャール朝と続いたが、帝国主義時代にあってイギリスとロシアの草刈り場となった。しかし、両すくみのなかでかえって最低限の独立だけは維持できた。第一次世界大戦後には、カスピ海南岸の名門出身でコサック師団の将校だったレザー・パフラヴィーが皇帝(パーディ・シャー)となり、国号をイラン(アーリアの意味)と改称し、近代化路線を進めたが、息子のモハンマド・レザー・シャー(パーレビ国王と日本では呼ばれることが普通だったが、皇帝とされることもあった)のときにイスラム革命で王朝は崩壊した。

シャーはアメリカに亡命したが、テヘランの大使館占拠事件で居づらくなり、パナマを経てエジプトで客死した。現在の当主は1960年生まれのレザー・パフラヴィーで、人権擁護運動などをしている。

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