『ことわざ比較の文化社会学』の「縁、運、根」

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(前回:『変動のマクロ社会学』の「縁、運、根」:社会変動への社会学的想像力

講義に「ことわざ」を織り込む

43年間、3つの大学で社会学概論や社会学特殊講義それに社会学入門の講義を行ってきたが、「ことわざ」を織り込むようになったのは30年くらい前からである。

授業で質的・量的な社会調査の成果や学説的な理論研究の一端を紹介しながら、その内容は周知のことわざと同じだと思ったことが何回もあったからである。

学術知と民衆知

「社会科学」としての社会学なのだから、そこでは学術的に標準化されてきた研究方法と使用する専門用語と先行する学説などを講義する。これはもちろん学術知である。この「縁、運、根」連載もまた、その大半が学術研究に関連する内容を基にしたエッセイであった。

その一方で、日本の地方都市では、長い間口述され伝承されてきたことわざをはじめとする豊かな文化の存在が気になっていた。

それはいわば日常生活経験の世界であり、象徴的には伝統や慣習や旧慣そしてことわざに純化されて、科学的手法などでは証明できないが、市民や住民や国民の感性と行動様式に大きな影響を与えてきたと考えられる。その多くがコモンセンスに適う常識ないしは良識でもあり、一部は常識を超えるところも持っている。

二足の草鞋を履く

講義で、たとえば2017年3月に策定された「働き方改革実行計画」を説明する際に、その主導的理念である「多様性」(diversity)を詳述する。その際にいろいろな働き方として、ことわざでも有名な「二足の草鞋を履く」も紹介する。

「多様な働き方」の事例としてこのことわざを紹介するのだが、日本で刊行されていることわざ本や国語辞典の多くが、江戸時代の「博徒が捕吏を兼ねること」という解説で済ませている現状に気が付いて呆然とした。

日本語と英仏語では評価が違う

せっかくだから、「二足の草鞋を履く」の英語表記が“wear two hats”であるとのべて、英語辞典では「一人二役する、仕事を2つもっている」と訳していることも追加する。

なお、フランス語でも“Avoir une activité double”なので、英語と同じく「同時に2種類の仕事につく」と表現して、そこには評価が下されていない。

これでは21世紀の「少子化する高齢社会」における「働き方改革」に、「二足の草鞋を履く」は使えない。せっかく学んだ昔の「人間の英知」ではあるが、このことわざは今の日本では宝の持ち腐れになりかねない。

亀の甲より年の劫

なぜなら、「亀の甲より年の劫」は文化を超えて正しいとされているからである。英語表現では“Years bring wisdom.” = “The older, the wiser.”であり、フランス語になると、“Expréience passe science.”(経験は学問に優る)となる。3か国語でも似たような単語が使われる。

すなわち、日本語では「年の劫」が「亀の甲」より優れると表現するが、英語ではyears(長い年月)が主語になり、知恵(wisdom)をもたらす(bring)とする。また、フランス語では、たくさんの経験(expréience)が科学や学識(science)を超えると表現する。

英語では目的語になったwisdomはexperienceも包み込むが、フランス語では経験がむしろ主語になるという面白さがある。

『大言海』の説明

『大言海』(:453)では、「年ノ劫ヲ歴テ、経験ヲ積ミタルモノハ、萬年ノ亀ヨリモ優ルト云フ意ヲ云フ」とある。

日本語の「亀の甲」は「年の劫(功)」とのごろ合わせ。例外はあるが、年長者の経験は尊びたい。加齢はそれなりの知識と知恵をその人に付けてくれる。劫とはきわめて長い時間のことで、そこには長年のたくさんの経験も含まれる。

言葉は半ば語る者に属し、半ばは聴く者に属する

ことわざ紹介に力を入れると、「言葉は半ば語る者に属し、半ばは聴く者に属する」(旧かな表記を新かな表記に変えた)という箴言にまで触れざるを得なくなる。これはモンテーニュの「エセー」にある(関根秀雄訳、1955:1774)。

今も昔も同じであるが、語る側の意図は受け手の側に正確に伝わるとは限らない。受け手が分かることしか伝わらないのである。そこで、現代コミュニケーションの基礎を話しながら、500年前のモンテーニュを思い出すことになる。

講義のたびに、最新の学術研究成果とことわざや古典に示された民衆知との往復が続いた。これは楽しいひと時ではあったが、準備の時間が長くなることにつながった。

三人寄れば文殊の知恵

「二足の草鞋」では数字の二が使われたが、たとえば民衆知の典型として「三人寄れば文殊の知恵」もある。

その英語表現では“Two heads are better than one.”となるので、日本語では三人、英語では二人という表現の相違を知らなかった受講生は、驚きとともに言語間比較に関心を強めることになる。社会学の講義での潜在的効果といえる。

もう一つのフランス語での表現を調べると、英語と同じように「二人」であった。“Deux avis valent mieux qu’un.”(二人の見解は一人のそれよりも優れている)。

日本語、英語、フランス語による比較

日本語ではなぜ3人なのか、英語やフランス語ではなぜ2人か、外国語そのものに疎い私にはよく分からない。

しかし3つの言語表現の間には異同が鮮明であり、それは文章比較や言語比較をすればよく分かるということが講義では強調出来た。そして文学部以外の受講生たちもその結果に興味をいだいたように感じた。

外国語では「文殊」が出ない

もう一つの比較の成果は、日本語ことわざでは見識ある大知識人としての「文殊」(知恵をつかさどる菩薩)よりも3人の合議が優れていると使われたが、英語やフランス語では人名は特に登場せずに、2人の頭脳が1人の頭脳よりは勝っているというだけであることを知りえた点にある。

なぜ日本語では「文殊」が登場して、英語とフランス語では人名が出ないのか。この理由には手が届かないにしても、ことわざを比較することにより3人と2人の区別がはっきりした。

ビートルズのミッシェル

比較した言語がドイツ語ではなく、なぜフランス語かは個人的事情による。

団塊世代である私の高校生時代はビートルズの全盛期に重なっていた。ほとんど毎日ラジオからビートルズを聞いていたが、ある日、いつもの英語とは違う不思議な発音のことばが歌の中から聞こえてきた。それが‘Michelle’であり、ビートルズ1965年12月発売LP『ラバーソウル』に収録されていた楽曲である。

レノン=マッカ-トニー作詞作曲で、ポールのボーカルの歌詞の中に、

Michelle ma belle
sont des mots
qui bon très bien ensemble
très bien ensemble

ミッセル、僕のかわいい恋人
君によく似合う言葉があるよ
ホントにピッタリだよ

が挿入されていた。それまでにもシャンソンやイタリアカンツォーネを聞いたことはあり、何とも思わずに聞き飛ばしていたが、ビートルズにもフランス語の歌詞があったことは私にとっては衝撃的な事件であった。

フランス語に目覚める

英語とは異なり、一音ずつ丁寧に発音しているような歌い方が印象的であり、フランス語に目覚めた瞬間である。

もっとも法的に解散が認められた1971年までのビートルズ213曲のうちフランス語歌詞が使われたのは‘Michelle’だけであったが。

アラン・ドロンのダーバンの宣伝

しかし大学ではためらわずに第二外国語にはフランス語を選択した。

それで‘Michelle’のこの歌詞も読めるし、訳せるようになって喜んでいた3年生の夏に、あの伝説的なアラン・ドロンのダーバンの宣伝に出会った。それは1971年のダーバンのテレビCMで登場したアラン・ドロンが最後に締めたセリフ

‘D’urban c’est l’élégance de l’homme moderne.’
「ダーバン、それは現代の男のエレガンスだ」。

この言葉は当時流行語にもなり、意味も分からない子どもたちまでも物まね風に発音していた。

しかし時節は流れて、当時ダーバンで起死回生のヒットを放ったレナウンが、ほぼ50年後の2020年には経営破綻した。現在はブランドを継承した別の企業が経営している。やはり万物流転(panta rhei)なのであろう。

『フランスのことわざ』から

もう一つは、初級フランス語の学習のころ、クセジュ文庫でピノーが書き、田辺貞之助が訳した『フランスのことわざ』(白水社、1957)を読んでいたことが、その後のフランスことわざへの関心を持続させる種火となった。田辺の訳は簡潔であり、初学者にも得心が行く内容が多かった。

たとえば、「学問と健康のほかに富はなく、無知と病気のほかに貧乏はない。知識は富にまさる」(田辺訳:107)。社会学を一生の学問と決めてからも、これを人生の導きとしてきた。

また、「思いやりは友をつくるが、真実を言うことは敵をつくる。…賢い者は仲間の生活と歩調を合せる」(田辺訳:130-131)があり、私はこれを結局守れなかったという苦い思いをいだいてきた。

立体的な比較社会文化研究をめざして

本書は何冊かある日本の「ことわざ本」の名著には及ぶべくもないが、しいてそれらに対しての違いを挙げるならば、一つは英語訳だけでなくフランス語訳も添えたことで日本語表現の個性がやや立体的に浮かび上がったこと、および民族を超えた人類の知恵としてのことわざに現代社会学的知見を加えたことにより、比較社会文化研究の素材にもなるように配慮したこと、の二点になるであろう。

『大言海』と『熟語本位英和中辞典』にたくさん学んだ

少しでもこれらが実現したと思われるのは、準備した1年間座右に置いて絶えず参照した大槻文彦『大言海』(新訂版 冨山房、1956年)と斎藤秀三郎『熟語本位英和中辞典』(新増補版、岩波書店、1936年)そして何冊かの『仏和中辞典』や『仏和大辞典』(白水社)からの知識によるところが大きい。

それらに正業としてきた社会学からの簡単なコメントを加えただけであるが、これもまた本書の個性になるかもしれない。

大学定年退職の1年前から準備した

ことわざへの関心は30年間前からあり、講義への導入・紹介は続けていたが、この本の準備をする余裕がなく、定年直前まで放置していた。

しかし、いよいよ定年退職を1年後に控えた最終年度に、4年生への持ち上がりを前提とした3年生のゼミを免除していただけたこと、および教授会以外の諸委員会も免除になったために、少し時間の余裕が得られたことがきっかけになった。

それにより「三日坊主」(Soon hot, soon cold.)にはならず、「七転び八起き」(To have nine lives.)の準備期間ではあったが、「遅くてもしないよりまし」(Better late than never.)という初志が貫徹できた。

「三日坊主」

これも数字の三が使われたことわざであるが、本文では次のように解説した(フランス語の説明は省略する)。

日本語の「三日坊主」とは、物事に飽きやすく長続きしないことである。坊主はお寺の坊主ではなく、単なる人を指す。ただし、歴代の『広辞苑』で記載されているように、この「坊主」にはあざけりが混じる。

英語では「熱くなるのも冷めるのも早い」ことであり、特に三日なのではない。

三度目の正直

もう一つは「三度目の正直」をあげておこう。

英語では“The third time is lucky.”であり、フランス語でも“La chance sourit à la troisième fois.”と表現する。すなわち日英仏語ともに「三度目」を使う。いずれも一度や二度目とは違って、三度目には期待通りの結果になることを言う。フランス語の‘la troisième fois’は三回目のことである。

何を始めても一度目はうまくいかないことが多い。楽器の練習にしても、ボーリングでも同じだろう。自動車学校に通い、クルマが乗れるようになるには40日もかかる。

何事もビギナーズラックはあるが、それが継続されることもない。二度目にも挑戦して挫けたあたりで、何かのヒントがつかめる。そうすると、三度目にはかなりの高い確率で当初の目標に近づける。

その意味では、三度目とは一度目と二度目を終えた後の回数であり、特に三回ということでもない。挑戦は何度でもいいのだ。次の「三つ子の魂百まで」では、「三日坊主」とは全く対照的に「三」が使われているのが面白い。

三つ子の魂百まで

三がつくことわざとしてはこの「三つ子の魂百まで」も有名である。英語表現では、“The child is father of the man.”であり、フランス語では、“Le caractère de l’homme se forme dans l’enfance.”となる。

このように日英仏いずれも個性的表現である。日本語では三つ子という年齢が記されているが、英語ではchild(子ども)であり、「子どもは大人の父である」という。この出典はワーズワースである。フランス語ではl’enfance(子どものころ)を使い、「人間の性格は幼児期に形成される」という意味になる。

『大言海』(:1996)では「浮世風呂」から「小サン時分カラ、気儘八百ニ育テタ物ダカラ、云々」と書いてある。

日本語の「三歳」は厳しい限定

日本語では「三つ子の魂」が、英語では‘child’が、フランス語では‘Le caractère de l’homme’が主語になる。また、日本語では「三歳」という厳しい限定がある。

要するに、人間が父母や先祖から受け継いだ先天性は人間の根幹になっているというものであり、いくら後天的に環境や学習で身につけても、この先天性が全部壊されるわけではない。

三歳くらいになると、子どもの自我が目覚める。英語での主語である「子ども」が18歳まで、このことわざは該当する。そしてフランス語では「人間の性格」が主語だからカバーする範囲は3原語のなかでは一番幅広い。

いずれにしても子どもの「社会化」(socialization)は社会システムの最も重要な機能の一つである。幼児期までは、子どもが生まれた家族(子どもにとっては定位家族)の果たす役割が圧倒的に大きい。しかしその機能が壊れ始めてきていて、児童虐待(死)はその象徴になる。

七転び八起き

これは「三日坊主」の対極にある生き方であり、それぞれの言語で独自の表現が見られる。ただしその意味は、幾度失敗しても、それに屈せずに、立ち上がって奮闘することを指している。日本語では「七回転んでも八回目に立ち上がる」。『大言海』(:1514)では、「数度ノ失敗ニモ屈セズシテ、奮励スルコト」とされている。

英語表現は‘To have nine lives.’なので、直訳すると「九生をもつ、すなわちなかなか死なない」となる。多くの場合この主語は猫であり、“A cat has nine lives.”と表現する。

フランス語では、‘Il n’y a chance qui ne rechange.’(取り替えのない機会はない)という一般的表現であり、七回などの数を示さないという特徴がある。

遅くてもしないよりまし

語学の勉強、入試の準備、国家資格への挑戦など、人生を左右する試験があり、その準備もまた大変である。いずれも試験日が決まっているから、それに向けて計画的に時間配分を行い、毎日努力するしかない。これについてのことわざは、日本語では「遅くてもしないよりまし」になるが、英語でもフランス語でも同じである。

英語では“Better late than never.”と書き、フランス語でも“Mieux vaut tard que jamais.”とする。

すなわち英語もフランス語でも遅くても(late, tard)、しない(never, jamais)よりましとする。単語が同じで、主語が省略されている文章であるところも変わらない。

比較すると、このようなことがはっきりするので、このことわざを通して比較社会学の重要性を講義では強調することにしていた。

時は金なり

入試の準備や国家資格試験の準備では「遅くてもしないよりまし」なのだが、もう一つは「時は金なり」でもある。

英語表現は誰でも知っているように、“Time is money.”であり、フランス語表現でも“Le temps,c’est de l’argent.”となって、日英仏すべて同じ単語、すなわち、Time=le temps、money= l’argentであり、語順も似ている。

これまで二、三、七の数字のことわざを紹介したので、次は冒頭に「一」が付いたことわざを見ておこう。

一石二鳥

その代表が「一石二鳥」であり、一つのことをして、同時に二つの効果・利益などを得ることである。日本語では石と鳥が使われ、英語でも“To kill two birds with one stone.”となり、日本語と英語では「一つの石と二羽の鳥」がそのまま使われる。石の一撃で二羽を殺すのである。

ただフランス語では、“faire d’une pierre deux coups.”となり、‘d’une  pierre’(一つの石)がdeux coups(二度の打撃効果をなす)という表現になる。

いずれの言語も、一回の労役や活動で多くの利益を得ることを表現している。フランス語の場合「鳥」は出てこないが、一度の試みが多くの利益効果を生むと理解する。

このことわざの恩恵

日常生活のレベルでも、このことわざの恩恵は至る所で感じられる。

大学入試は苦労が多くて二度とやりたくないが、その準備を高校3年生の時に1年間しておけば、大学合格の暁には受験勉強の季節だけでは得られなかった多数の友人や恋人にめぐり会える。また、大学の講義では高校までとは隔絶した知識、語学、学問方法論を知ることができる。

一羽の燕で夏は来ない

もう一つの「一」が付いたことわざでは、「一羽の燕で夏は来ない」をあげておこう。これは社会調査の冒頭に必ず話すことにしていた。なぜなら、一回の経験もしくは少数の事例だけを取り上げて、そこから一般化を試みることの愚かさを受講生に分かってもらえるからである。

英語表現では、“One swallow does not make a summer.”となり、フランス語では“Une hirondelle ne fait pas le printemps.”と表現される。面白いのは、英語では「燕一羽で夏にはならない」という表現で、日本語同様に季節は夏である。ただし、古典文学の世界ではさすがに季語感が複雑であり、「燕」や「燕の巣」は季節が春だが、「燕の子」になると夏に移される。そして「燕帰る」では秋とする。

ところが、英語との季節感の違いのせいか、フランス語では「燕一羽で春にはならない」となるのである。‘le printemps’は春なのである。しかしこれは、燕が来るのは春か夏かを論じたことわざではない。むしろ人間の性急さをたしなめているのである。

三十六計逃げるに如かず

一桁の数字ではなく、「三十六計逃げるに如かず」のように、三十六が頭にくる場合もある。

英語では“Discretion is the better part of valor.”になり、フランス語でも“Le plus sage est de décamper.”だから、英仏語では36が使われてはいない。

「三十六計」は中国古代の兵法にある36種の計略であり、あれこれ計画を練ることを意味する。その計画の中に「逃げる」も入る。英語のDiscretionは「慎重さ」、valorは「勇気」だから、「慎重さはより良き勇気の一部である」と直訳できる。

フランス語のsageは賢明な(英語ではwise)で、décamperは逃げる。だから「逃げるのが賢明だ」となる。

不必要な危険は避ける

『大言海』(:882)では、「三十六計走るを上計とす」として、「作戦ノ計劃ニ種種アレド、逃ゲテ、身を全ウスルヲ、最上トス、トノ意。臆病者ヲ嘲リテ云ヒ、又、卑怯者ノ遁辞トス」と詳述されている。

日本語では、「形勢が不利になったら、逃げてしまうのが一番良い」という意味で使われる。「君子危うきに近寄らず」とも訳される場合がある。したがって、「不必要な危険は避けた方が賢明だ」ともなる。

山中や近頃は町中でクマに出会うと、立ち向かってもかなわないから逃げる。ナイフや拳銃をもった強盗からも逃げたほうが無難だろう。しかし逃げると、卑怯だという批判を覚悟しなくてはならないときも多い。このような事情の中で、最終的にはその場から身を引くことも重要な戦略になる。ただし、逃げ去る地点を慎重に定めておかないと失敗する。

人の噂も七十五日

三十六の次は七十五であり、これもよく使われる「人の噂も七十五日」を取り上げる。

ただし英語では“Nine day’s wonder.”となり、日本語の75日ではなくたった9日間である。フランス語でも“Les médisances ne durent jamais bien longtemps.”なので、日英仏語で表現が全く異なる。

英語では9日間

日本語では75日かけて消えるとされているが、厳密な期間ではない。数か月というところか。

英語では9日間と表記される。調べてみると、この9日間は誕生した犬や猫が視力を得る期間のようである(大塚高信編,1979:856)。詳しく書けば、”Something that attracts attention for a short time and is then forgotten.”

フランス語では、「人の中傷は決して長くは続かない」と表現される。Les médisanceは中傷(malicious gossip)であり、「うわさ」ではないところに、文化による違いが歴然としている。ne durent jamaisで、「けっして続かない」。

継続は力

この英語表現は“Continuity is a father of success.”となり、フランス語では“La continuation est le pouvoir.”と表現される。最後に「継続は力」についてまとめる。

英文で分かるように、継続の「力」にはpowerやforceではなく父親(father)を使う。

逆にフランス語では、日本語と同じ表現になる。継続(la continuation)、力(le pouvoir)は英語のpowerに該当する。

短期目標と長期目標の融合

学習でも受験勉強でも資格試験でも長期的展望の下で、短期的目標達成を積み上げていく。いきなり2年後の目標を定めてそれに向かうのではなく、2~3か月程度の短期目標を織り交ぜたほうが、2年後の目標達成が容易になる。なぜなら、短期目標の達成度合いが確実に点検できるからである。

私は1年間で論文を3篇、10年間で単著を3冊というように短期目標と長期目標を交錯させてきた。その結果、一応の目標達成が出来た。

もし短期目標が達成できないのであれば、次の2~3か月で修正できる。この繰り返しこそが、成功(success)をもたらす。あるいは力(pouvoir)になる。

それは仕事の上で成績を上げる際にも、スポーツで記録を伸ばす際にも等しく有効である。

文化の相違への配慮

言語も文化も歴史も大きく異なる日本語、英語、フランス語を主な言語とする国民間で、似たようなことわざをもっていながらも、使用する単語も表現形式にもこれほどの異同があることに改めて驚く。

本書では、民衆知の一部のことわざを110選択して、3通りの言語で表現して、それらに現段階での私なりの社会学的なコメントを付加したに過ぎない。今回の「縁、運、根」で、それぞれの言語が背景とする文化の奥深さを実感していただけたのであれば、たいへんうれしい。

本書を踏み台として、たんなる処世訓でもない、警句だけでもないことわざのもつ現代にも役に立つ社会的機能を知っていただければと願うものである。

謝辞

本年4月5日にスタートした「縁、運、根」の回想法はこれで終了します。厳密には「未来シナリオ」関連が2回含まれていますが、ちょうど連載30回を数え、ここで一区切りをつけたいと存じます。

毎週日曜日に掲載していただいたアゴラ編集長、友人・知人、社会学の先輩・同輩・後輩と教え子たちからも、時折感想や意見を寄せていただきました。約50年間の学問の思い出話に半年間付き合っていただいた多くの読者の方々に、心から感謝申し上げます。

【参照文献】

  • 伊吹武彦ほか編,1981,『仏和大辞典』白水社.
  • 金子勇,2020,『ことわざ比較の文化社会学』北海道大学出版会.
  • Michel de Montaigne,1588,Les Essais de Michel de Montaigne,(éd.)p.Pierre Villey,Paris,Felix Alcan.(=1955 関根秀雄訳『随想録(六』』新潮社).
  • 大塚高信編,1979,『新クラウン英語熟語辞典』三省堂.
  • 大槻文彦,1956,『新編大言海』(新訂版)冨山房.
  • Pineaux,J.,1955,Proverbes et Dicton Francais.(Collection QUE SAIS-JE? N 706) Presses Universitaires de France.(=1957 田辺貞之助訳『フランスのことわざ』白水社.
  • 斎藤秀三郎,1936,『新増補版 英和中辞典』岩波書店.
  • 田辺貞之助編,1976,『フランス故事ことわざ辞典』白水社.

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