織田と豊臣の真実⑮ 朝鮮国王に予定された三法師丸

※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)などを元に、京極初子の回想記の形を取っています。(過去記事のリンクは文末にあります)

内大臣として政権ナンバー2だった織田信雄さまは、あいかわらず尾張一国と伊勢の一部で八〇万石ほどを領しておられたのですが、家康さまの関東移封のあと、秀吉さまから徳川旧領に移るように命じられました。

織田信雄画像 (総見寺蔵 /Wikipedia)

織田家を大事にして大幅な加増をするのですから、文句はあるまいと秀吉さまは考えたのでございます。

しかし、信雄さまはこれを拒否され、「尾張は織田家発祥の地、伊勢は北畠家の由緒ある土地」だとか、むしろ、美濃も欲しいというようなことを仰ったようです。この厚遇の申し出をにべもなく断ったので、ついに秀吉さまも堪忍袋の緒が切れたのでございます。

これには、信雄さまが小田原の陣のとき、あわよくば、徳川や北条と組んで反秀吉に立ち上がるという噂が流れ、信雄さまもその疑いを晴らすために十分な努力をしなかったという事情もありました。

信雄さまは下野の烏山に流され、わたくしたちの祖母に当たる土田御前は、伊勢安濃津の織田信包さまのもとで暮らすことになりました。他の女たちも京都の寺院に移ったり、それぞれ縁を求めて散って行きました。

秀吉さまのことですから、きめ細かな身の振り方についての配慮はされましたが、織田家の一家離散です。

織田家譜代の家臣たちも、織田旧臣の諸大名のところに引き取られたり、帰農したりしました。

それでも、浅井旧臣もそうですが、濃尾地方や近江からは、たくさんの大名が出ましたので、戦国時代の名がある武士のうちかなりは、各地の大名に仕えることができたのですから、他の地方の武士に比べれば運が良かったのでございます。

ほかの地方では、主君が外様大名として生き残れた場合には良かったのですが、そうでないと、ほとんどは、百姓に戻って江戸時代を生きました。

土佐の場合には、特別に郷士というかたちで刀を差し続けられたのですから、全国的にみれば例外的に恵まれていたといえましょう。土佐で長宗我部旧臣が悲惨な目にあったというのは、あまり適切な評価とはいいかねます。

また、織田系の大名のなかで加賀の前田さまは、織田旧臣の名だたる武士を数多く引き受けました。「加賀百万石は尾張武士の植民地」といってよいほどです。そのなかには、守護だった斯波氏の末裔まで含まれていました。

つまり、斯波家の家来の織田氏の家来だった前田氏の家来に斯波様が家老としてお仕えされることになったのです。さすがに、斯波の名前では都合が悪いというので、津川と名乗っていましたが、明治になって斯波に復姓して男爵になりました。

織田秀信像(滋賀県大津市聖衆来迎寺蔵、琵琶湖文化館展示/Wikipedia)

織田家では、かつて三法師丸と呼ばれた秀信さまが、信雄改易の2年後には岐阜城主となっています。

秀吉さまも徐々に取り立てていこうとしていたらしく、大明帝国征服のあとは、秀信さまを朝鮮国王にしようかなどという構想ももっていました。創業者家へのそれなりの配慮は秀吉さまもしていたのです。

しかし、この時点では、何よりも織田家の血を引く鶴松さま(秀吉さまと茶々のお子)が豊臣家の後継者となるのですから、秀吉さまとしては、十分に織田家には尽くしているという気分があったのでございます。

織田信雄さまが改易されたあとには、のちに関白に成られたものの悲劇の主人公になられた三好秀次さまが清洲城主となられました。秀次さまはそれまで近江の八幡城主でおられたのですが、安土城の水運がもうひうとつ良くなかったことから、近くの八幡に町全体を移されていたのです。

居城を移転する場合に、もとの城下町や城も残すことがありますが、清洲から名古屋とか、安土から八幡といった場合には、町人も寺社も丸ごとの移動です。ですから、近江八幡には信長も参加したお祭り(左義長祭り)といったものが、移転した神社の祭として残っているのです。

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