龍馬の幕末日記⑱ 佐久間象山と龍馬の出会い

2021年01月18日 06:00

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」 』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

佐久間象山/国立国会図書館蔵

ペリーがの黒船がやってきた年の暮れに、私は佐久間象山先生のもとで砲術を学ぶこととなった。なにしろ土佐の国は長い海岸線を持っているから、ペリー来航の前から異国船が出没しており、砲術の会得は役に立ちそうだった。

天保14年には、筆頭家老である深尾相模(佐川の殿様)が幕臣下曽根金三郎先生のもとで学び、容堂公自身もやはり金三郎先生から教えを受け、領内に32カ所もの台場を築いていたのである。

長い海岸線を守るには上士だけでは人数が足らないので郷士たちも動員されることになっていたから、郷士である私が最新の砲術を学ぶというのは自然の流れで、私自身に、さほど、先見の明があったわけではない。

この金三郎先生の弟子が江川坦庵先生であり、その弟子が象山先生なのだが、たまたまその屋敷が築地屋敷に近い木挽町にあったことから、前の年の暮れに同じ土佐の樋口真吉、山崎文三郎、桑原助馬が入門していた。

明治政府で活躍する佐佐木高之も先生を訪ねたのだが、象山先生の過激な人柄についていけず入門は取りやめていた。

佐佐木は上士の出身で容堂公側近だが勤王派の理解者でのちに世話になる。維新後は枢密顧問官などをつとめ侯爵となった。天皇親政派として民権派や伊藤博文と対抗したことでも知られている。

いろいろあって、このペリー来航の年には、土佐藩から十数名もが象山塾に入門した。。、そのなかには溝渕広之丞、衣斐小平などもいた。

mituma/iStockl

ただ、象山先生は明日、説明するように、ペリー再航のおりの3月27日に、弟子の吉田松陰らの密航失敗事件のとばっちりで国元の信州松代での蟄居を命じられたので、十分に教えを受けることができなかった。

だが、この象山先生との出会いで受けた刺激は大きいものであったし、のちの勝海舟先生との出会いにつながっていくものであり、私の一生においてたいへん重要な意味を持つことになるのである。

土佐藩ではこうして人材を養成するとともに、大井村浜川町の下屋敷から海に突き出すような形の砲台を築く工事を準備し、本国からも129名の兵士を応援部隊として送ってきたのである。

ペリーの再来航は前の年より予告されていたことであるが、幕府では年半ばのことだろうと鷹を食っていた。ところがペリーは、正月の14日に早くも浦賀にやってきてしまったのだ。

土佐藩ではさっそく出動すべきか伺いを立てたが、幕府はペリーを刺激することをおそれ、「提灯など掲げると目立って標的になるし、少人数を木陰山陰などに置いて見張りするにとどめるべし」と軟弱なことをいってきた。

*龍馬がどのように海防に動員されたかは詳細不明である。

 

*本稿は「戦国大名 県別国盗り物語 我が故郷の武将にもチャンスがあった!?」 (PHP文庫)「本当は間違いばかりの「戦国史の常識」 (SB新書) と「藩史物語1 薩摩・長州・土佐・佐賀――薩長土肥は真の維新の立役者」より

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評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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