龍馬の幕末日記⑲ ペリー艦隊と戦っても勝てていたはず

2021年01月19日 06:00

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」 』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

マシュー・ペリー/Wikipedia

ペリーが再びやってきたときの、幕府の腰抜けぶりはあきれるばかりだった。ペリーの艦隊の要求を拒否してあくまで長崎に回るようにいえば、はたして武力行使に及んだのかも分からなかったし、したところで、江戸の町の一部が焼けるくらいのことはあったかもしれないが、小兵力でやれることは限られているのである。

だいたい、このころのアメリカの海軍力はアルゼンチンやチリ以下と言われ、パナマ運河は当然、なかったので、東海岸からカリフォルニアに行くのもマゼラン海峡周りだった。ちなみに、カリフォルニアまで鉄道が開通したのは、明治になってからで、岩倉使節団がこの鉄道を利用したので話題になった。

それに、ペリー艦隊は喜望峰周りできたくらいで、なにかあっても応援部隊が来る可能性もなかったから戦っていても勝てたはずだ。

しかも、前年から予告されたことだったのだから、将軍などを内陸部に避難させて一戦交える準備くらいしておけばよいのに、それもしてなかったのだ。

「攘夷」などというと無謀な言説だと現代人には思われているが、それは、外国勢力の要求を抵抗もせずにすべて聞き入れるべきでないという主張を広く指す言葉であり、なにも無茶でない。このときも、あの開明的な名君である佐賀の鍋島直政公すら、断固拒否して長崎で応接しろと意見したのである。

やがて、交渉が始まると出動が命令され大井屋敷の砲台工事も始めるようにいわれた。私も動員されたが、二月には日米和親条約締結の運びとなって沿岸警備も解除されることになった。

吉田松陰/Wikipedia

吉田松陰先生がペリー艦隊に忍び寄って海外密航の交渉をして断られたのは、このときだが、「龍馬伝」でのように、私が吉田先生に一緒に行きたいと頼んだなどということはなかった。私はそもそも吉田先生と面識はないままに終わった。

また、「竜馬がゆく」では、この第一回の江戸修行のとき武市半平太が先に江戸にいたとしているが、事実ではない。同じく、「竜馬がゆく」や「龍馬伝」でのような桂小五郎との出会いがあったこともない。

とりあえずペリーもいなくなったので。ようやく安心して本来の目的である剣術修行に打ち込めるようになったのだが、もともと期限を区切っての江戸修行だったから、五月には江戸を出発するしかなかった。

ペリー艦隊との出会いは貴重な経験だったが、剣術修行のほうは、だいぶ中途半端なことになってしまった。

mariko satou/iStock

* また、土佐への帰路に京に立ち寄ったか不明だが、修行期間の短さを考えると、あまり寄り道などすることなど考えずに、江戸での修行をぎりぎりまで続けていた方が自然だろう。

 

*本稿は「戦国大名 県別国盗り物語 我が故郷の武将にもチャンスがあった!?」 (PHP文庫)「本当は間違いばかりの「戦国史の常識」 (SB新書) と「藩史物語1 薩摩・長州・土佐・佐賀――薩長土肥は真の維新の立役者」より

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評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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