龍馬の幕末日記⑳ ジョン万次郎の話を河田小龍先生に聞く

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」 』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

私が一年の江戸遊学を終えて、高知の坂本家に帰ったのは6月23日のことだった。もっと延ばしたかったが、私も土佐藩の公務員みたいなもんだから勝手はいえない。

しかし、なにしろ、ペリー艦隊を来航の現場に居合わせ、佐久間象山先生という話題の人に弟子入りしていたのだから、城下では誰しもが私の話を聞きたがった。

この貴重な経験のおかげと、そして、ちょっとは自信のある話術のおかげで、私は高知の城下でも若くして有名人になれたのである。

剣術の修行の方は、海防に動員されたりして最初の予定ほどには時間が割けなかったが、それでも、江戸有数の道場で鍛えられたから、腕が相当に上がっていたことはもちろんだ。それもあってか、閏七月には日根野先生から「中伝」をいただいた。

このころ、絵師の河田小龍先生の知己を得た。小龍先生はあの中浜万次郎(ジョン万次郎)から藩の命令で聞きとりをし、たいへん、立派な記録を作られたことで知られている方だ。

中浜(ジョン)万次郎/1880年(明治13年)頃の写真(Wikipedia)

万次郎は土佐清水の漁師だが、漂流してアメリカに渡り嘉永六年に帰国していた。土佐ではあまり蘭学は盛んでなかったから、とりあえずは、広い世界について知識をえようとすれば、先生から話を聞くのが手っ取り早かった。

私は河田先生の噂を聞き、予告もなしに訪ねて、「小龍さん、時勢について何か意見がおありでないですか。聞かせてくださいといきなり申し込んだのである。先生は「私は絵描きですから」と遠慮しつつ、「いまのままでは攘夷は難しいが、開港したとしても海防の備えは必要でしょう。ところが、陸上の砲台はともかく、水軍が問題です。とくに外洋に出たら、いまの日本の船では揺れが大きく、射手も銃手も狙いを定めることすらできんのです。外国船を買い求めて人を運び商いをしながら、航海術を学べればと思うのだが」といわれた。

河田小龍(霊山歴史館蔵/Wikipedia)

 この話を聞いて、私も感激して「これまで剣術に取り組んでいたが、これだけではいまの世の中で通用せんと思ってました。だが、小龍さんの話でよお分かりました」と叫んだものである。

 私がのちに勝海舟先生の弟子となり、さらには海援隊を創るに至ることになったが、そのきっかけは、まさに小龍先生が与えてくれたのである。

 また、海援隊などで私を助けてくれた土佐人たちの多くは、この小龍先生の弟子だったから、その意味でも、私にとってこの出会いは大きな意味を持った。

 八月には容堂公が江戸の築地の下屋敷で建造させた洋式の軍艦が土佐にやってきて、容堂公がこれに乗船された。ほんの試作品にすぎなかったが、私にとって大きな刺激だったことはいうまでもない。

*本稿は「戦国大名 県別国盗り物語 我が故郷の武将にもチャンスがあった!?」 (PHP文庫)「本当は間違いばかりの「戦国史の常識」 (SB新書) と「藩史物語1 薩摩・長州・土佐・佐賀――薩長土肥は真の維新の立役者」より

「龍馬の幕末日記① 『私の履歴書』スタイルで書く」はこちら
「龍馬の幕末日記② 郷士は虐げられていなかった 」はこちら
「龍馬の幕末日記③ 坂本家は明智一族だから桔梗の紋」はこちら
「龍馬の幕末日記④ 我が故郷高知の町を紹介」はこちら
「龍馬の幕末日記⑤ 坂本家の給料は副知事並み」はこちら
「龍馬の幕末日記⑥ 細川氏と土佐一条氏の栄華」はこちら
「龍馬の幕末日記⑦ 長宗我部氏は本能寺の変の黒幕か」はこちら
「龍馬の幕末日記⑧ 長宗我部氏の滅亡までの事情」はこちら
「龍馬の幕末日記⑨ 山内一豊と千代の「功名が辻」」はこちら
「龍馬の幕末日記⑩ 郷士の生みの親は家老・野中兼山」はこちら
「龍馬の幕末日記⑪ 郷士は下級武士よりは威張っていたこちら
「龍馬の幕末日記⑫ 土佐山内家の一族と重臣たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑬ 少年時代の龍馬と兄弟姉妹たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑭ 龍馬の剣術修行は現代でいえば体育推薦枠での進学」はこちら
「龍馬の幕末日記⑮ 土佐でも自費江戸遊学がブームに」はこちら
「龍馬の幕末日記⑯ 司馬遼太郎の嘘・龍馬は徳島県に入ったことなし」はこちら
「龍馬の幕末日記⑰ 千葉道場に弟子入り」はこちら
「龍馬の幕末日記⑱ 佐久間象山と龍馬の出会い」はこちら
「龍馬の幕末日記⑲ ペリー艦隊と戦っても勝てていたは」はこちら