龍馬の幕末日記㉑ 南海トラフ地震に龍馬が遭遇

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」 』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

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私が一年の江戸遊学を終えて、高知の坂本家に帰ったのは6月23日のことだった。もっと延ばしたかったが、私も土佐藩の公務員みたいなもんだから勝手はいえない。司馬遼太郎さんの小説「竜馬がゆく」では、私が剣術修行で江戸にいる間に土佐で地震があって、たいへん気をもんだと書いてあるが、それはまったくのフィクションだ。私は江戸から帰って土佐にいたのだ。

私が土佐についたのは、安政元年の6月のことだが、11月になって、土佐は連続地震と津波に襲われ大災難となった。まず、11月4日の地震は東海沖のものだった。

この地震では、江戸に大変大きな被害が出て、後楽園の水戸屋敷では藤田東湖先生などがなくなったと聞く。もし、先生が生きておられたら、のちの水戸藩の大混乱はなかっただろうとのちによく聞いた。

だが、土佐では11月5日の二度目の地震が深刻だった。東海沖地震に誘発されて、こんどは南海沖地震が起きたのである。最初の揺れは夕刻の五時頃だったが、そののち、100回以上の揺れがあり、とくに、城下の東部は壊滅的な被害を受けた。とくに夕刻という時間だったことから火事があちこちで起こり、北町、浦戸、朝倉を焼き尽くし、高潮の被害も大行きかった。

翌日になると下知村の堤が切れて城下の東半分は海のようになってしまった。死者372名、17469軒の家が被害を受け、米は17589石も流出や消失したり濡れてつかいものにならなくなったと、幕府への報告にある。

坂本家があった城下でも西部にある上町かいわいは、あまり大きな被害はなかったのだが、継母の実家である北代家は鏡川の河口にあったのであとかたもなく流されてしまった。このために、坂本家では離れの屋敷を移築して使うように手配するなど、援助の手をさしのべた。

この土佐の地震が、令和の日本人が皆さん心配している南海トラフ地震で、だいたい、70年くらいの周期でやってくるらしいから、これは、みなさん覚悟されていた方がいいと思う。

*本稿は「戦国大名 県別国盗り物語 我が故郷の武将にもチャンスがあった!?」 (PHP文庫)「本当は間違いばかりの「戦国史の常識」 (SB新書) と「藩史物語1 薩摩・長州・土佐・佐賀――薩長土肥は真の維新の立役者」より

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