織田と豊臣の真実⑱ 伏見は12年 日本の首都だった

※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)、「日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎 」(光文社知恵の森文庫)などを元に、京極初子の回想記の形を取っています。(過去記事のリンクは文末にあります)

太閤殿下が聚楽第を秀次さまに譲られたあと、伏見城を築かれたことはすでにお話ししましたが、そのことをもう少し詳しくお話ししましょう。

『聚楽第図屏風』部分(三井記念美術館所蔵:Wikipedia)

あまり知られていませんが、この伏見は、秀次様が亡くなられた文禄4年(1595年)から家康様が駿府に移られた慶長12年(1607年)までの12年の間は、日本の政治の中心、言葉の定義によりますが首都だったのです。

伏見の町は京都から奈良に向かって下っていく街道が、宇治川を渡るところにございます。いまは宇治川の南には広い平野に田畑や住宅がありますが、昭和の初めまでは巨椋池という大きな沼で、いま観月橋という橋がある側の指月山という丘は月見の名所として知られおりました。

中世までは琵琶湖から流れ出した瀬田川は、山城に入って宇治川と名を変え、この沼にいったん流れ込み、そこからまた流れ出て木津川や桂川と合流して淀川となって、大阪湾につながっていました。

その合流点の少し下流にあるのが山崎の町で、瀬戸内海を航行してきたそこそこの船も、ここまでは遡ってくることが出来ました。紀貫之が土佐から帰京するときに上陸したのもここです。

そしてこの合流地点にあったのが淀城でございました。といっても、現在、菊花賞などでおなじみの京都競馬場の近くにある淀城は、江戸時代になってのもので、茶々が鶴松君を出産したのは、もう少し上流の納所というところにありました。いずれにせよ、明治になって大きく川の流路を変更したので、当時の地形をしのばす面影はあまりありません。

指月山はもともと宇治の平等院を建立した藤原頼通さまのものでしたが、中世には持明院統(北朝)の持ち物になりました。大光明寺陵と呼ばれる北朝の光明天皇や崇光天皇の御陵があるのは、その名残りです。

そして、やがては、その分家である伏見宮家の邸宅になりました。伏見宮という名はこれに由来します。

太閤殿下は、京都のあちこちに散在していた公家たちの邸宅を、御所のまわりに集めていったのですが、その一環でもありました。

殿下はここを買い取られ、かわりに、伏見宮邸を京都御所の北に移しました。いま、同志社女子大学があるあたりです。最初は、大坂から京都へ向かう中継基地のような位置づけでした。

伏見城(Thongchai/iStock)

聚楽第を秀次様に譲られたとき、太閤殿下は名護屋城におられましたが、大政所様や北政所様は大坂城に移られていました。はじめは、風流な別荘だったのですが、やがて、佐久間政実さまに命じて本格的な城を築くことを始められました。秀次様を牽制する意味もありました。

それと同時に、大土木工事を起こされ、宇治川と巨椋池の間に堤を築いて分離し、大きな船が伏見まで遡れるようにされました。また、淀川左岸の堤を強化して伏見と大坂のバイパス道路のようにもされたのでございます。

こうして伏見は「京都港」というべき機能を持つようになりました。幕末の歴史でも、坂本龍馬さんなども大坂からここまでは船でやってきて、船宿である「寺田屋」に泊まったことはよく知られたとおりです。鉄道の時代になるまでは、ここが京都の西日本への玄関口だったのです。

しかし、この城は、直下型の大地震で崩壊してしまいました、朝鮮遠征での軍紀違反で謹慎中だった加藤清正が、最初に駆けつけたという挿話で知られる地震ですが、清正さまについてのエピソードは、当時、私は聞いておりませんので、事実ではないかもしれません。

この指月山の城跡は、主に、UR(旧公団)住宅や公務員宿舎になっています。ノーベル物理学賞を受賞された益川敏英さんは、ここの公団住宅に住んでおられたとき、入浴中にノーベル賞受賞理由となった理論を思いつかれたそうです。

伏見城の話の続きはまた改めてします。

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