織田と豊臣の真実⑲ 朝鮮遠征和平失敗の謎を解く

※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)、「日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎 」(光文社知恵の森文庫)などを元に、京極初子の回想記の形を取っています。(過去記事のリンクは文末にあります)

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京都の時代祭には、「豊公参朝列」という演し物も登場します。慶長元年(1896年)5月2日に行われた豊臣秀頼さまの皇室初参内と元服時の行列の一部を再現したものです。大名は騎馬、それ以外は徒歩で行進いたしますが、秀吉さまとお拾君(秀頼さま)は、牛車に乗って参内します。

自分が生きているうちに、秀頼さまを後継者として認知させようと秀吉さまは必死だったのでございます。そして、秀頼さまは、9月には早くも元服されました。

豊富秀頼像 京都市東山区養源院所蔵品/Wikipedia

この年には、明の皇帝から使いが来て講話の交渉がございました。はじめは、伏見城で謁見が行われるはずでしたが、閏7月の13日未明に大地震があり、現在の左京区から東山区、そして伏見の町が壊滅的な大損害を受けました。

この地震でせっかく完成していた方広寺の大仏殿も倒れてしまいました。この時の大仏は木造でしたから、一緒になくなってしまったのです。

伏見でも城ではほとんど建物が倒れてしまいました。当然に明使節の謁見どころではなくなり、かわりに、大坂城に千畳敷という広間をこしらえて、そこで、9月1日に謁見するのです。

このときに私も茶々もその場に居合わせたわけでありませんので、人づてにあとで聞いた話ですので確かではないのですが、太閤殿下の要求されていた明の皇女の帝への降嫁とか慶尚、全羅、忠清、江原という四道の割譲、貿易の再開などの和平条件は無視されて、かわりに、太閤殿下を日本国王に封じると言った内容でしたので、破談となり、再征が命じられ慶長の役になったのだというものもおります。

しかし、ここのところの経緯はもうひとつ分かりにくいものです。よく聞くのは、両者の条件が折り合いそうもないことを心配した小西行長さまや宗義智さまが、太閤殿下に嘘をいって、ことをやり過ごそうとしたのですが、通訳に当たった僧が正直に訳したので、殿下は書状を破り捨てたというのです。

文禄の役で活躍を見せた小西行長(太平記英雄傳小西摂津守行長:落合芳幾作/Wikipedia)

しかし、それにしては、書状もちゃんと残っていますし、小西行長さまや、その動きを黙認したとされる石田三成さまも失脚していないのです。

そこで、わたくしはこんな風に推測いたします。三成さまらは政権安定のためにも早期に朝鮮から撤兵して国内体制の再構築に取りかかることが必要と考えました。

そして、もし、このまま朝鮮問題の収容に成功したら、一転して東国への締め付けが強まり、家康さまも安閑とはしていられなかったでしょう。いったん、新規事業から撤収して、社内の掌握にかかろうというようなものなのですから。

そして、わたくしは太閤殿下もそのようなシナリオには理解を示し、ここは呉越同舟でもいいから騙されておこうと考えられたのでないかと思うのです。

ただ、最低限、朝鮮半島の最南部あたりには、兵をとどめて占領したままにしておくこと、そして、明との貿易が開始されること、たとえば、朝鮮側から王子を人質を出すといった目に見える形でそれなりの実利と戦争に勝った証は欲しかったのだと思います。

小西様たちは、もしかすると、はっきり約束しなくても、兵を留めておけばおのずから、そうした方向に持って行けると考えられたのでしょう。しかし、それでは、太閤殿下は承知されない。

また、主戦派の加藤清正らが本当のことを暴露して妨害に出て、それに徳川家康さまや前田利家さまも荷担したのではないかと思うのです。

そうなると太閤殿下も騙されたふりすらできなくなります。

茶々の立場からすると、自分たちにとって邪魔な秀次公を追いやったことは成功です。ですが、朝鮮半島の戦争が続いたことは誤算でございました。

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