龍馬の幕末日記㉔ 山内容堂公とはどんな人?

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」 』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

山内容堂公と言えば、土佐の殿様として大政奉還などに活躍された方だが、実は私はお目通りしたことはない。そのことはまたあとで書く。

内田九一写真館にて撮影(高知県立歴史民俗資料館所蔵品/Wikipedia)

安政5年に彦根の井伊掃部頭直弼公が大老となり、篤姫様を御台所にされていた将軍家定公、と薩摩の島津斉彬公がなくなられたのがこの年だった。

この島津斉彬公は容堂公にとっても恩人である。土佐では第11代藩主の豊資公が隠居されたあと、その子の第12代の豊煕公が意欲的な改革を試みられた。しかし、若くして死去され、その弟の第13代豊惇公も将軍へのお目通りもしないうちに急死された。

順序から言えば、豊資公の末子として、のちの第15代豊範公がおられるにはおられたのだが、まだ3歳だった。そこで、豊惇公の死を公表せずに、豊資公の甥で南家という分家の当主だった豊信(容堂)公が、22歳と年の頃がちょうどよかったことから、家督を継承させることにした。そうしたのちに、豊惇公が翌年2月に病死されたとして届けられたのである。

もちろんこうした経緯は幕府も知っていた。だが、建前としては無嗣断絶もあり得るわけであるし、そうでなくとも、徳川家から養子を取れと言われかねず、慎重な工作が必要だった。

幸いにも前藩主である豊煕公の正室は島津斉彬の妹でおられたので斉彬公など親戚の諸侯が動かれて無事に容堂公が継承できたのである。といっても、ご隠居様で保守的な豊資公が少将様と呼ばれて実権を握っておられたので、容堂公は自重するしかなかったのである。

だが、ペリーがやって来たのを機に、容堂公は江戸城で賢公の一人として頭角を現され、その名声をバックに土佐でもようやく実権を掌握されたのである。

*本稿は「戦国大名 県別国盗り物語 我が故郷の武将にもチャンスがあった!?」 (PHP文庫)「本当は間違いばかりの「戦国史の常識」 (SB新書) と「藩史物語1 薩摩・長州・土佐・佐賀――薩長土肥は真の維新の立役者」より

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