※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
安政6年(1860年)は安政の大獄がいよいよ猛威をふるった年で、吉田松陰先生などが処刑され、山内容堂公も隠居させられ謹慎となった。
この年、平井加尾が三条公睦に嫁いだ容堂公の妹・恒姫のお世話係として京都に旅だった。私が少し憎からぬ思いを寄せていた女性だったので、ほろ苦い思いをした。加尾とは二度と会うことが出来なかった。
「竜馬がゆく」では、彼女を福岡家の田鶴姫に置き換えているし、「龍馬伝」では実名のままヒロインにしているが、会いもできず悔しい思いをしたのにロマンスでもなかろう。
加尾は兄・平井収二郎があとで書くような事情で切腹したのち、年下の西山志澄(西山直次郎)と結婚。西山志澄は戊辰戦争に土佐藩兵として従軍。板垣退助が指揮した迅衝隊に加わり、甲州・勝沼の戦いで近藤勇の「甲陽鎮撫隊」を破り、会津戦争でも戦功をあげている。
西山志澄は、自由民権運動に参加したが、明治23年には自由党幹事、衆議院議員にも6回当選し、明治31年の第1次大隈内閣では警視総監になった。加尾ものちに、私と再会できなかったことを「女子一生の痛恨」と思わせぶりなことを書いている。
私は、この年の9月に砲術家である徳弘孝蔵先生の門下生となっている。
翌年には、安政7年が万延元年となり、3月には、桜田門外の変が起きた。水戸浪士の仕業と聞いて、前年に住谷らの来訪があったことから、私に感想を求めるものも多かったので、私も少し志士的な気分が高まってきた。
そのとき、私は「諸君、なんぞいたずらに慷慨するや。これ臣分を尽くせるのみ。我が輩、他日事に当たるまたこのごとしを期せん」と大言壮語したと、明治になって内務大臣など多くの閣僚を歴任して子爵になった河野敏鎌が回想している。
そんな漢文調の物言いはしないが、よく似たことは言った覚えがある。
7月になると、武市半平太が岡田以蔵、久松喜代馬、島村外内らを同行させて中国、九州剣術遊歴に出発した。このうち、岡田は香美郡岩村出身の郷士で、半平太の剣術の弟子だったが、のちに京都などで天誅の実行者となった。
井上佐一郎、本間精一郎など多くの事件にかかわり「人斬り以蔵」と呼ばれた。あまりよくいわれない人物だが、勝海舟先生が襲われたときに命を救ってくれた。
私は「この時勢に武者修行でもあるまいに」とからかったが、この旅で諸国の志士と交わった半平太は、尊皇攘夷の志を固め、これが私の運命にもかかわってくることになった。
*本稿は「戦国大名 県別国盗り物語 我が故郷の武将にもチャンスがあった!?」 (PHP文庫)「本当は間違いばかりの「戦国史の常識」 (SB新書) と「藩史物語1 薩摩・長州・土佐・佐賀――薩長土肥は真の維新の立役者」より
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