※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
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江戸で武市半平太らが土佐勤王党を結成したころ、土佐でも勤皇攘夷へ向けて気分が高揚していた。けっこう、たくさんの若者が天下に雄飛して活躍することを夢見ていた。
そこで、私も、京都の三条家に仕えていた平井加尾に手紙を送って、「高マチ袴」「ぶったさき羽織」「宗十郎頭巾」「細い大小の刀」を用意しておけと書いた。
細い大小の刀は、私たちが京都で活動するときに、加尾に男装して外出させ連絡をとろうとしたものだ。
他人に手紙を見られる可能性もあるから、細かい目的は書かなかった。それでも、加尾は当惑しつつも、土産にするという口実で反物を購入し、いつでも仕立てられるようにし、大小も国元に頼んで送ってもらったらしい。
加尾も攘夷派の三条家にいるわけだから、細かいことはいわなくとも、時代が何を求めているかは、理解してくれていたのである。
一方、半平太は9月3日に江戸を出て、道を急ぎ、その月のうちに高知に着いた。さっそく、土佐勤王党に参加するように勧誘を始めたので、親戚だし、かつて江戸で大石弥太郎ともども同室にあって生活していた私が、土佐に在住の者のなかで最初に加入したのはごく自然の成り行きだった。
この同盟に参加した人数は192名になったが、郷士、下士、足軽、庄屋などが主で、上士の参加はほんのわずかだった。趣旨には賛成でも、井口事件のあとでもあり、郷士たちが大量に加盟したことに驚き、尻込みしたのである。
10月になって「小栗流和兵法三箇条」の免状をいただいた。これで免許皆伝ということになって、一人前の剣士になったということだ。諸国に剣術詮議にでかけるという口実が出来たというわけだ。
10月9日、讃岐の丸亀にあった矢野市之丞のもとに出かけるとして29日の国暇を願い11日に許可された。
この旅の途中、坂本家の領地のある土佐郡柴巻村の田中良助を訪れて二両を拝借した。兄のくれた資金は丸亀行きには十分だったが、少々、心もとなかったので、少し追加資金が欲しかったのだ。
こうした旅行は、そのたびに申請すれば、わりに簡単に延長が認められたから、安芸の坊之砂に渡り、さらに浪速に向かった。
幕府の要請で土佐藩が大阪近郊に建設した住吉の陣営を訪れ、土佐勤王党の20番目のメンバーでもある望月清平に会ったのだ。
権平、乙女、加尾なども入門していた門田宇平に一絃琴を習っていて付き合いが深かった。私の生まれた上町の北に隣接する小高坂村出身の白札郷士で、池田屋事件で死んだ亀弥太の兄だ。
過激な志士としての行動には走らなかったが、さまざな場面で私のこともきにかけてくれた「よき男」だった。
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