龍馬の幕末日記㉖ 土佐では郷士が切り捨て御免にされて大騒動に

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

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 「龍馬伝」では土佐勤王党の結党を土佐でのことにしているが、実は江戸が舞台である。

土佐で郷士がひどく冷遇されていたというのは事実でないが、上士との間に厳しい対立があった。

上士の方でも「違いを見せつけたい」と思う誘惑もあって、何度も深刻な対立事件が起きている。

1797年には郷士高村信吾が上士井上左馬助の刀をけなしたところ切り捨て御免にされたのに郷士たちが抗議して大騒動となった。

また、1844年には正月の「のりぞめ」という馬揃えで、上士たちが郷士によるのりぞめ披露を取りやめようと画策して猛反発が起きている。このころ、朱子学が盛んになったことから、全国的にも身分秩序を明確化しようという動きがあり、それに触発されたのだろう。

そして、この年にはまたもや「井口(永福寺門前)事件」が起きた。郷士の中平忠次郎と明治時代に学者として活躍し、文筆家としても知られる寺田寅彦の叔父に当たる宇賀喜久馬が夜道を歩いていたところ、中平が上士の山田広衛に突き当たってしまい、 口論の末、山田と中平の斬り合いが始まった。宇賀は直ちに中平の兄・池田虎之進の元に走って急を告げ、池田とともに現場に戻ったが、すでに中平は切り倒されていた。

池田はこれを見て激高し、傍にいた山田を切り伏せ、弟の遺骸を自宅に引き取った。上士たちは復讐のため山田邸に参集、また郷士団もこれに対抗して池田邸に集まって一触即発の状態となり、藩を二分する一大抗争事件に発展したのである。

私は直接には関与しなかったが、郷士たちはみな悔しい思いをしたものであり、こうした気持ちが「土佐勤王党」設立の伏線となったのはたしかだ。

「竜馬がゆく」では、この事件の収容のために、龍馬が上士たちと交渉する役を引き受け、両名の切腹で話をまとめたとなっているが、この役は大石弥太郎がしたもので私は関係ない。

「龍馬伝」で私がのちに紹介する実力者吉田東洋のもとに談判にいったとなっているが、これも事実でない。「龍馬伝」ではそれ以外にも私と吉田との交流が描かれ、互いに理解し合う関係だったことになってしまったが、そんな憶えもない。

ちなみに、この事件で切腹した宇賀喜久馬(当時18歳)の実兄が寺田寅彦の父である利正(当時27歳)で、寺田家の養子になっていたが、介錯をして弟の首を落とす悲劇を味わっている。このことは一生の負い目であったようで、寺田家では一切口に出してはならない秘事とされ、寅彦も詳しいことは知らなかったようだ。

旧藩時代は藩庁の下役人として財務関係の職務についていたが、維新後は新政府陸軍省に出仕し、主に会計局に勤務した。最後は士官学校会計部長であった。

井口事件で郷士のリーダー格として認められた大石弥太郎は、3月に洋学修行の藩命を受け、江戸へ向かい、勝海舟先生の塾に入り、長州藩士桂小五郎や周布政之助ら諸藩の志士と交わることになった。不満分子とならないように処遇したのである。

大石はは安政の大獄の一環で幽囚された容堂公の処分に憤慨し、周布らの援助を得て活躍し、志士たちとも交わった。

そして、4月には武市半平太が剣術修行のために再び江戸に向かった。途中で各地に立ち寄りながら6月に江戸に入り、ここで弥太郎から長州藩士久坂玄瑞、桂小五郎、薩摩藩士樺山三円らに引き合わされた。

こうして勤王の志士として頭角を現した半平太は、8月に江戸で土佐勤王党を立ち上げたが、この盟約文を起草したのも大石弥太郎である。血判書には2番目に弥太郎の名があるが、むしろ、弥太郎が半平太を引っ張ったというべきであろう。ただ、半平太が白札という郷士と上士の中間身分なので、リーダーとしてかついで弥太郎はナンバーツーに留まったのである。

*本稿は「戦国大名 県別国盗り物語 我が故郷の武将にもチャンスがあった!?」 (PHP文庫)「本当は間違いばかりの「戦国史の常識」 (SB新書) と「藩史物語1 薩摩・長州・土佐・佐賀――薩長土肥は真の維新の立役者」より

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