※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
長州の萩へ行って、久坂玄瑞のもとを訪れたのは、文久2年(1862年)のはじめである。半平太から紹介状をもらっていたが久坂が、江戸に行って不在というのでこのころになった。
1月14日に萩へ着いて、文武修行館に落ち着き、
と会った。安政の大獄で刑死した吉田松陰先生の一番弟子で、義弟でもある。勤皇攘夷をめざす若者にとっては憧れの存在だ。
萩には23日まで留まって「尊藩も弊藩も滅亡しても大儀ならば苦しうべからず」という武市あての書状を託された。当時としては珍しい「藩」という表現が使われているのが不思議だったが、長州を中心に志士たちの間で好んで使われる流行語だった。
「藩」というのは公式には明治になってから公式に使われ始めた呼び名で、しかも、そのとき成立したのは高知藩である。土佐藩とかいういちども存在すらしなかった言葉を使うのは嫌なのだが、便利なのでここでも少しばかりは使用している。
私はいったん大坂へ立ち戻って安岡寛之助などと会ったあと、翌29日に高知へ戻った。久坂と会ったあとも大坂などに立ち寄ってから帰っているのだから、大事な用事を託され、それへの返答を持ち帰ったというのではない。
私は武市に京都での新しい動きに加わるように意見したが、半平太はあくまでも土佐藩を丸ごと勤皇藩とすることを優先させるという。しかも、家老の吉田東洋を殺してでもという勢いなのも賛成できなかった。
吉田は、容堂公の信頼を得て藩政を仕切っていた。豊煕公時代に郡奉行をつとめ、ペリーが来たときに容堂公の意見書を起草して全国に名をあげた。
吉田は「海南政典」という法律の整備、武家格式の簡素化、幕命で大坂の住吉陣営を建設、藩校文武館の開設、洋式銃の購入など藩政改革には熱心だった。緊縮策を強化する見返りに藩士からの俸禄借り上げを中止するとかもした。
一方し、改革を進めるためにと称して幕府との摩擦を避けようとし、勤皇の論議も書生論として退けた。
吉田の側近が、後藤象二郎、福岡孝悌、板垣退助、谷干城、岩崎弥太郎などで、かつて挫折した豊煕公時代の改革派グループ「おこぜ組」にちなんで「新おこぜ組」と呼ばれていた。
「おこぜ組」とはゴマすりグループといった悪口で、勤皇派と対立するだけでなく、門閥層とも対立した。というのは、門閥層のかかりを抑える一方、自分たちはかなりの贅沢をしたからである。
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